18th
1月
2012
失礼に礼を通す
自分の嫌いな言葉に「やれる事をやりましょう」という言葉がある。
なんてことはない、うちの親の口癖である。
この言葉は、正直、自分は大嫌いだ。
一番難しくて、一番大変なのは、考えることである。
「やれる事をやりましょう」では、それらを無視する口実になりかねないからだ。
「やれること」とは聞こえはいいが、中身はあくまでも感情である。
感情だけで物事を選択した場合、多くの場合、逆に最終的にあやふやにして、筋を通せなくなってしまう。
今日は、そんな話にも通じる「失礼に礼を通す」という話。
わかりづらいかな?
「礼を通すために生じる失礼というものは間違いなくあるし、それは誠意を込めて対応すれば失礼にならない。だから、失礼なことを失礼にさせないことで、礼を通しましょう」
みたいな話。
今日の話は、できたら多くの人の感想を知りたい。
で、昨日の記事で出てきた、うちの爺さんの葬式の話。
葬式は、感情が支配する洗脳空間で、結婚式よりも気持ちを落ち着かせる要素が少ないので、俺は嫌いだ。
爺さんは、大往生だから本当の身内だけの葬式にしよう。
そう決定していたらしいのだが。
身内だけとして「葬式に参列したい」という方も断わることにして、そうである以上、香典だけというのも「頂けない」として断る方向だった。
が・・・、統率の取れない親族という集団で、こういう葬式みたいなのをやると、お決まりのゴタゴタが起きるわけである。
日本人らしい話、「以前、香典を頂いた」とかで、断れなくなって香典をもらってしまうわけね。
で、問題にはならなかったが、「金だけ貰うのでいいのか?状態」になってしまったわけ・・まあ、詳細は省略するが。
こういう問題が起こるのも「相手の好意を拒否したりするのは失礼である」とかの話からなんだよね。
正直、なんだそりゃと。
自分もろくに社会に出てないが、感情だけで判断基準を決めると、シーソーのように、「こっちが立てば、あちらが立たず」で、ぎったんばったんしてしまうことはあるわけで。
そうでなくても、右と左のどちらかに失礼とは言わないが、喜ばしくない結果を与えなきゃならないというのはよくあることで。
フラフラなのが一番悪いと思うし、そういうのを出来る限り納得できるようにするために、スジというか方針みたいなものがあるべきで。
この場合なら、「本人の意向により、式に参列したい方を拒否した以上、お気持ちを無下にしてしまう以上、香典だけを頂くなんてことは出来ません、○○さんが追悼してくださったことは、私が故人に報告させていただきます」みたいなことを手紙なりなんなりにして、「香典を付き返す」という形になっても、けして「失礼じゃない」と思うんだよね。
もっとちゃんとした手紙でね、そういうのを書けば、単なる名前と住所を業者に押し付けるだけの香典返しとかより、大変なことでしょ?
それなら、ちゃんと「こういう理由があるんだな」と伝わると思うんだよね。
スジを通す、その結果が失礼になるかどうかは、その後についてくることの対応、その技術の問題・・・じゃないけど、別問題としてクリアする方法自体はあると思うのよ。
上前淳一郎の「読むクスリ」という本に、こんな話があった。何巻かは忘れたが。
友人達と海外旅行のホテルで、はめを外していたら、隣の部屋からワインとメッセージが届いたという話。
「楽しそうな声が聞こえてきます、私も、そのお仲間に加わりたいのですが、明日は仕事で早いので・・・」というメッセージがね。
遠まわしな、隣の部屋の人間からの、「うるさいぞ」って苦情だよね。
正直、人によっては嫌味が強すぎるととらえるかもしれないギリギリの話だが。
でも、そのワインを送るというメッセージの中に、「楽しそうな貴方達の気分を害したくはないよ」というメッセージも「察してくれよ」としてあるわけで。
ただ、電話で「フロントからうるさいと伝えろ」よりは、全然いいでしょ?
この葬式とかでもよくある話も一緒だと思う。
ただ、相手の感情にあわせて「ハイハイ」をしちゃったら、「相手の気持ちを察する」というものではない。
スジを通したい「どうり」があって、そこにお互いでメッセージをぶつけ合って、初めて、どちらが折れるとか、譲るとか、我慢するとか、遠慮するとかの「察する」というのがあるんだと思う。
「相手の好意を受け取る受け取らない」という基準だけで、失礼か失礼ではないのかにしてしまうのは、よくないわけよ。
さて、やっと本題。
陰謀論の世界では、相手の気持ちを害するという行為が、必然に起きてしまう。
歴史の教師とかの人に、「間違った歴史だと思いますよ」というのは、相手は気分がよくないだろうね。
別に、「気分を害したい」わけではなく、都合のいい歴史にしてしまっている、それが今現在もつながっているという問題点を指摘したいだけなんだよね。
ライバルである藤原家の娘が作った源氏物語、楠木正成が怨霊となってる南朝崇拝の太平記。出家したのに神社の息子という徒然草。
源氏物語とかは滅亡した、つわものども、「鎮魂」の作品だけど、明治以降は南朝正統で「天皇をすり替えた」ために、「鎮魂である→南朝が滅んだ」と認知されすぎると、「滅んだのに、何で南朝が正統なの?」と、すり替えに気づく土台にもなるから、「鎮魂」とは言わず、ただ、わけもわからず賛美されるという構図。
吉田神道、徒然草は徳川家の葬式など、仏教なのに神道ですという、ごまかしにつながっている。
征夷大将軍と源氏も同じ事、元宮内大臣田中光顕氏あたりの話を読めばわかる。【20090403】
南朝、神道、源氏、全部、天皇すり替え野郎どもにつながってる話。
その利権構造が今も続いていますよ、だから今も、そういうのばかりテストに出るんですよ、と。
「感情で物事を決める」それとは出発点から違うわけ。
けして、香典をつき返して、気分を害したいわけではない、ただ貰えないだけ。
ホテルの隣の部屋に苦情を言って楽しい気分を台無しにしたいわけではない、ただ眠りたいだけ。
天皇すり替えという、みえみえなことを無視している問題があるというのを、ただ伝えたいだけ。
そう、失礼に礼を通す。
そのための対失礼スキルをあげておく。
気分を害しても、通さなきゃならないスジがあり、それはあなたの気分を害するためにやってることではないのですよ、と。
そうしないと、自分のような人間は生きられないからね。
そのためのスジ、努力はしますよと、ちゃんと伝えられるように、自分は、もうならなきゃいけないのかもしれないね。
posted in ガイドライン| Tags: 天皇すり替え, 徒然草, 楠木正成, 源氏物語, 神道 |
17th
1月
2012
長い棒に短い棒、支えあうから「人」になる。
支えあうから人なんだ
支えあうから人なんだぁ~
支えてるのは、「短いほうの棒」だけどな。
自分より長い棒を!!!!!
人間社会はいつだってそうである。
今日は謝るのとともに、少し話しておかなきゃいけないことがある。
うちの爺さんは、もろにロックフェラー系である。
戦争中は陸軍の医者でその後、保健所の所長ってね。で、親父がロスチャ系の企業。
自分の苗字の祖先は、徳川慶喜についてきた昔の医者で寺子屋を開いたとかの、ロスチャ系南朝族メーソンにつながりそうな江戸時代にいた徳川の多くの御殿医の中の1人が祖先らしい。
水戸藩つながりの慶喜をきっかけに、声をかけられだがで、三河という愛知、水戸とは関係ないあっち側から静岡にきたという、当時の東国侵略にもつながってそうな蘭学朱子学メソ寺子屋の人という、よくわからん話。
なんか寺子屋のことで石碑が建ってるらしいが、その後、婿養子で苗字を継いだ分家だし、家系図ぐらいしかよくわからん。しかも興味ない。
うちの家系がメソがいたとかの話はあるわけないし、やたら骸骨のバッジのような物がジジイの遺品に多くあったぐらいしかわからん。陸軍のやつだろうね。
自分の住んでいるとこ、最寄の駅が草薙、御門台(天皇=みかど+だい)でもわかるとおり、国家神道ともつながってそうな地区である。
清水次郎長の清水で、横浜以前はお茶輸出の国際貿易都市(今は面影なし)で、明治維新の悪党どもの別荘地でもあり、西園寺公望つながりでもある地区だが、今現在は、うちの周辺の静岡にロッジはないと思われる。
ただ、明治維新直後だかに、うちの祖先が、ここで寺子屋を開いてたということは間違いないらしい。
飯が食えなくなって寺子屋をやったとも聞いてるし、朱子学や蘭学を教えていたという確定的証拠はないが、明治に西からこの静岡こにきた徳川の御殿医の1人という時点で、たぶんアウトである。
よくわからないで誘われて付いてきた最下層の下っ端で半分路頭に迷ったってとこだろう。
よし、副島隆彦に「祖先が天皇すり替えのあっち側だろ、説明しやがれ!」と以前に批判した手前、長くなったけど説明した。
自分の祖先も「あっち側でした」・・・。ざんげ終了。ごめんねー(棒読み)
さて、懺悔だけでは寂しいので。
この静岡という土地のことをもう少し。
自分の住んでる清水と静岡全体のことを適当に。実はコアな話になるわけである。
清水港→地球号だし、どっかの住吉会の都知事が尖閣宇宙戦艦ヤマト作戦したときに、同行者が銃刀法違反で密輸した港でもあるんだけど。
稲川の東組と山口組系の清水一家の両方がいるけど、港自体は右翼よりって言えば、答えは出るよね。あと、そこらへんの海底を掘っていたそうな地球号。にげてぇえ!!
まず、自分の地元には、日本の歴史上、唯一「アメリカにNOと言えた男」、満鉄ちょうだいと言ったハリマンを小村寿太郎を使って蹴り返せたグラントリアン、ロスチャの手先、西園寺がいたわけ。
清水の外れの興津にね。その関係から、西園寺の周辺=アンタッチャブルとして、観光地でもなんでもないのに、明治後は大久保やら、つまり住友、三菱などなどの財閥系、悪党どもの別荘地に清水の郊外が選ばれたという経緯がある。
しかし、武士の残党で国際金融資本が作らせた牧の原のお茶輸出が少なくなり、清水港から貿易の拠点が関東の横浜になったことで、清水は廃れ、過去の財閥系の別荘地とかは面影以前に、地元民でも知ってる人間は少なく、閑古鳥の泣く地方都市として今に至ると言っていいだろう。今は静岡市だけどね。
で、その後の横浜が外人墓地、640ロッジ、中華街、その他もろもろで、神奈川県警というロックフェラー管轄の中のロスチャ系の街になったと。
この静岡に隠居してきた、天皇すり替え、徳川壊滅に導いた水戸藩の手先、慶喜も重要である。
うちの祖先もめでたくこれに関係してるだろうが。食うに困る下っ端だから関係ないともいえるが。
自分は、内戦を回避した部分では慶喜を評価したい部分はある。
その徳川家を考える上で大事なこと。
まず、重要な鍵として、久能山東照宮がある。
天皇崇拝とともに出てきた神社勢力と徳川の条約・・・ではないけれど、その徳川との協力関係の象徴みたいな物、それが久能山と日光の東照宮である。
そもそも臨済寺などで幼少から寺で勉強してた徳川家康が、「なぜ神社?」って事でもわかると思うが、これはもともと寺です。国宝?なにそれ?おいしいの?
もともと、東照宮は大権現をまつるという形だが、この「大権現」というのは「大権(だいごん)=仏や菩薩が、大衆を救うために仮の姿で登場する」という意味で、その大権現である以上、仏様のかわりに大衆を救いますよ(家康が)という、仏教の話に他ならず、久能山も、こっそり昔の地図にはお寺のマークになってたりするわけです。(子供の時しか行ってない、確認したいとも思ってるけど)
このことを知るだけで慶喜がなぜ、静岡で隠居してたかも、西園寺がいたこともわかるよね。静岡は、そういう勢力同士の仲裁の場だったんだよ。東国と西国の関係からね。
だから「東に侵略する」という「ええじゃないか運動」もその話。
そして神社勢力と静岡の関係は、それだけではない。
もともと神社は、仏教導入に反対した物部氏とかの儀礼が、西国、西日本の海岸全沿いで「海崇拝」として残った宗教だと自分は考えている。
八幡(ばはん・倭寇・朝鮮系海賊旗)宇佐神社・周防の海。大内氏、大江氏→毛利氏(厳島)とかね。出雲や伊勢も。百済が海を支配してた部分があり、そこが起源であると。
その骨格は、全国にやたらある天満宮の菅原道真でもわかるとおり、海崇拝ではない神社でさえも百済でつながってるわけ。
朝鮮系の海賊などなどで政府に反抗する思いもあったために仏教ではない形での海崇拝があって、それが起源。その延長って事。
で、海崇拝じゃない形の神社、この天満宮(百済)や、稲荷(起源は、ねずみ講の商売で広がった)、そして、それ以外の特異な神社、重要な、浅間(あさま・せんげん)神社もある。
浅間大社。それは何かと言うと、別名、富士権現で昔は寺に近かった気がするが、富士山崇拝なわけね。これ。
つまり、国家神道というでっち上げを作る際に、西の海崇拝という起源から、東のほうの山岳崇拝の中に協力者を作って、他も吸収するという形で進んでいった。
そして全国に神社体制を作り上げたわけ。官幣社とか、護国神社だけでなくね。
「ええじゃないか運動」と基本は同じ。
その仲裁、協力の構築の場でもあるのが、静岡なわけよ。
それが富士宮市の浅間神社。日本の象徴、富士山である。
で、日本中にあった山岳崇拝が浅間神社として、ニョキニョキしていったと。
この場合、静岡で海崇拝に山岳崇拝の中の富士山信仰系が協力したってことね。
その富士山崇拝を藤原氏と関連して考えてる読者もいるけど。(調べてないのでわかりません・教えて)
さて、こんな感じでいいかな?
ロスチャ系とロックフェラー系、両方から生まれた俺。静岡というお土地柄の話。
最近の静岡はロックフェラーが強気味です。県警とか。
今、日本で「偶然」地震に会わない人は、静岡南端の下田に、いるかもわからないペリー家の残党ぐらいかもと、勝手に思っている。
明治維新後の、長州の天敵である福島で起きた311はもちろん、東の麻布に対抗できる、関西随一のシナゴーグがあるほどユダヤの多い神戸、北朝天皇宗教の天台宗系の流れをくむ山口組のお膝元、ロスチャ系の498ロッジのあるとこで「偶然」起きた阪神淡路大震災。
日本は地震大国で、横浜だろうと何だろうと安全なところはない。
皇居はもちろん、同じように神道と仏教仲裁の場所であり最暗部でもある京都の御所。
仲裁の場所、静岡ももちろん。
西園寺はなぜいたのか?慶喜が静岡に隠居した理由・・・同じ静岡の中の、オウムのいた富士宮は今日話した山岳と神社の関係の延長かもしれないね。
もちろん、国家神道と仏教の仲裁役、富士宮の大石寺が起源の創価学会もそれですよと。
そこ以外では、修善寺(空海が建立も嘘で、ホントは修禅寺で修行の禅寺だけどね)というのを中心とした征夷大将軍と源氏の関係が関わってくる、伊豆あたりの怪しげな宗教のるつぼのとこ。
「怪しい奴らがいるから、逆に大丈夫だろ」とは言えず、どこで大地震が起こってもおかしくない。
「口減らし」のことも考えれば、横須賀、厚木であってもおかしくないんだよ。
本当のコア支配者は日本にいないわけだからね。
そもそも、横須賀で東京などに行く浦賀水道の通行をすべて監視し、航空管制は在日米軍、ロックフェラーにおさえられてるから、日本にロスチャ系な最重要人物は来たがらない=ビルダーバーグ会議も行われることはない。最近気づいた。
はたして、日本はどうなってしまうのか?自分の住む静岡は?
何も知らない人が、この文章を読んだら「そんなことあるわけないだろ!」と思うかもね。
でも悲しいかな、天皇すり替えという、寺を神社にする程度とは比べ物にならないほどの、大胆で馬鹿でめちゃくちゃな捏造がまかり通った日本という国で私達は生きている。
でっちあげ偽物の高野山が本山の真言宗(世界遺産?何それ?おいしいの?)とか、空海とか、征夷大将軍とか、神社とか、意味がわかってくると嘘は見える。
反応しちゃうのは、面白いよ。
過去のこと、今のこと。そして未来のこと。
ちゃんと「自分で」考えよう。
それにしても読み返してみると、俺がこうなったのは、お土地柄と家柄という環境のせいでもあるんだな、と気づかされますな。そんなお話でした。
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16th
1月
2012
CIAの手先の皆様へ、子供を産むのなら1人までにしといたほうがいいよ。
さて、今日の話。
終戦間際の日本に2発の原爆を落とされて終戦となったわけだが、なぜ広島と長崎だったのかが、なんとなく見えてきた。
「口減らし」だったんだね。
なぜなら・・・
おっと、食料のための人口削減という口減らしの意味じゃないよ。
情報漏洩を少なくするための口減らし。文字通り。
それが原爆の意味であり、それは今、311の後である「戦争中である今の日本」でも考えるべきことだったんだね。
ここらへんの考察の参考にさせてもらったのが、この本。
原爆の秘密 鬼塚英昭
isbn978-4-88086-232-3 国外編
isbn978-4-88086-233-0 国内編
鬼塚氏は、以前の本、天皇のロザリオでは、戦後はキリスト教を国教化した統治をしようとしたと言い張っていたわけだが、この本では長崎はカトリックの日本の聖地だから原爆が落とされたと、まるで手のひらを返したようになってしまっているが・・・。
まあ、それはよしとしよう。
自分も「長崎はカトリックだから原爆の落とされた」というのは同意である。
知ってのとおり、当時は既に今と同じ、帰一教=イルミナティ教であって、左翼的な日本国憲法やフィリピンの現状を確認するまでもなく「イルミというかロスチャはキリスト教を邪魔に感じてた」というのは、間違いないことだと自分も判断してるからである。
もちろん、キリスト教というネットワークの中にいたであろう走狗をついでに処分したというのもあるだろうね。
長崎については、このようにまだ不確定な予想だが、広島のほうは、もっと鮮明に理由が透けてくるのである。
今、考えるべきなほう、大事なのは広島だ。
知ってのとおり世界大戦はロスチャイルドとロックフェラーの共同作業である。
鬼塚氏は、こう説明している。
広島のウラン型は、ロックフェラー・メロン
長崎はプルトニウム型で、モルガン・デュポン
こうであると。
前者がロックフェラー系で、後者がロスチャイルド系とも言い替えられるね。
鬼塚氏は、世界のウラン鉱山はロスチャが支配しているとともに、アメリカの「ウラン資源国ではない」という事情も含めて、ベルギー領コンゴから運ばれたウラン鉱石が、ロックフェラー製の原爆となって投下された事情を書き記してくれている。
ロスチャとウラン鉱山、アメリカのウラン事情どちらも最重要な着眼点で、そこを持って、この原爆製造について追求してるというところは評価すべきところだ。
まあ、正直、それ以上の「本当に製造されたのか」などまでの深みまでは、調べなおさなきゃわからないというのが正直な感想だ。
しかし、この本を読んでいて、ああ、なるほどと感じたのが「口減らし」の部分である。
本に書いてないことが見えてくるのである。
さて、原爆を落とした理由は何でしょう。これを考える上で、絶対に間違いのない理由を探せばいい。そうすれば見えてくる。
まあ、諸説あるが、それ以前に「実験であること」は間違いないわけ。
既に敗戦国として確定していた日本人を使って原爆の人体実験をする。こんなスペクタルなことはない。それが落とした奴らの頭の中なわけね。
そう、「実験」。だからデータを取る必要があったわけ。
というか、絶対にデータは取りたかったんだよ。
その着眼点を持つと、広島の原爆というのが後始末とデータ集積を誰がやったか?が見えてきて、鬼塚氏の本に書いてないことさえも、つながって見える。
実験なら、その時のデータを取る本当の協力者が絶対にいる、戦争が八百長であることを知ってれば、それは間違いないと確信を持って言える。
そいつらの存在が鬼塚氏の本で見えてくる。
具体的にいうと、
第2総軍司令官 畑俊六(軍関係の指揮・パリ平和会議代表や陸軍大臣など)
広島県知事 高野源進 (後始末する役)
二号研究→仁科芳雄博士(計測する役・のち河辺機関)
こんなやつらね。詳しくは本読んで。
鬼塚氏の本で、こいつらがアメリカの手先として協力し、畑が軍人を広島に集め、誰を生かし殺すかの生殺与奪の線引きを情報参謀第2部の有末中将(日本郷友会副会長)とともに決めていた描写がありありと書かれている。
この本を読むまで、自分は、広島に落とされたのは「軍港の呉つながりあたりなのかな?」とだけを思っていた。
しかし、読んでいくうちに、それだけじゃなく「終戦という目処をつける為に情報漏洩を最低限にするよう口減らし、損切りをしたんだったんだダダダ!」と、文字通り声を出して叫んでしまったよ。
どどどっドドどもってないよ。
鬼塚氏の本に載っていない目的、それこそが口減らしである。
そう、戦争中の相手国で観測をする役目は日本人スパイしか出来ない。
(仁科芳雄博士、データ集積→ABCCへ)、そいつらの動きの意味を追いかけると、同時に仲間の下っ端を広島に「主人からの集合命令ですよ」と集めて、文字どおり消滅させたのも鮮明に浮かび上がってくるのだと。
鬼塚氏は、原爆が落ちるのを知ってて殺す人間と生かす人間を見定めたとだけの見解だが、違う。その選別も何のためか?を考えれば簡単である。
日本という雑巾は右手と左手で絞られ、そして最後は雑巾自身はいらなくなる、捨てられるのだ。
それを実行したのが、畑俊六で陸軍、情報参謀第2部の有末中将とでもつながってる通り、戦後は、GHQ情報参謀2部(CIA)=ロックフェラー機関。これも本に出てくるよ。
さらには、畑が戦犯として一時的に収容された巣鴨刑務所では、その後の日本版CFRの重要人物、賀屋興宣と一緒にいたところまで本に出てくる。
鬼塚氏は、ロックフェラーではないロスチャによる長崎での原爆で、不思議なことに「アメリカ人捕虜は一人も死ななかった」とも書かれてるが、自分は、この証拠隠滅の為に広島に下っ端を集めて葬り去ったことのほうが大事であると自分は思う。
余談だが、長崎→反カトリック→ロスチャの仕業という話も信憑性が高い。
なぜなら、カトリックは有色人種意識が残ってるキリスト教で、本来ロスチャよりなはずだが、なぜか日本では四谷資金などの例を出すまでも泣く、カトリックとGHQ情報参謀2部、反共カルト、純白人崇拝であるロックフェラーとの連携が多く見つかる。
本来、ロスチャ圏であるEU、そのイタリアのマフィアがロックフェラー系の動きに同調し、それにカトリックの一部も連携してることをなんとなく以前から意識してたので、そこらへんの流れが日本にもつながってるのかな?と思ってた。
それともカトリックマネー網とロック系でつながってる糸でもあるのか?ぐらいに考えていたけど、帰一教というロス茶の事情、それと原爆をロスチャが長崎に落としたとつながれば、そこから反共カルト化=ロックフェラー化したカトリックが日本ではいっぱいいることに「なるほどね」と頷かずにはいられないわけである。
ここらは、調べてまたわかったら教えるね。 →余談終了。
さて、そういうわけで広島の原爆は
政治的な陣頭支持をして後始末、プルサーマルを導入した福島県知事である佐藤雄平
それを担ぎ出した、GHQ情報参謀2部そのまんまの東京地検特捜部
イランで核物質の大量爆破を企画したモサドとつながるイスラエル国防企業もIAIの起爆装置管理システム(スタックスネット必要なし)
観測してデータを集積するために、われ先にやってきたイスラエルの医師団
そのお国らの指令で海で塹壕を掘っていた地球号
そいつらの情報統制をする大本営の記者クラブ・・・・
彼らによって、福島に原爆は落とされ・・・
あれ?
あらら、「終戦」と「開戦」がひっくり返ってしまいました。
忘れてください。
「まだ」状況証拠でしかないですから。
プルサーマルを導入した張本人なのに批判されないのと、戦犯なのに表舞台で暗躍しているというのも含めて「まったく同じ」というふざけた構図だがね。
イランでモサドとCIA、イスラエルとアメリカが核テロをやったというのを知ってるだけで、全部根拠のある状況証拠。
さて、日本に多数おられるCIAの手先の皆さんよ。
あなたが、どんなに忠誠を誓おうと、「裏切らないという保証」はどこにもないし、そんな確約を作ることは絶対に出来ない。
戦争の時、最後に口減らしをした。これは覚えとけ。
今の日本、TPPという命令をきかされ、ドル衰退という負け戦の中で、武器輸出までやらされようとしている。
しかし、それでもアメリカも含めて、ドルという通貨では負け戦にしかならん。
今はまだ真珠湾に近いが、本当に情勢が確定したとき、あんたらにも「集合指令」が届くかもね。
あんたらの代わりもいくらでもいるし、むしろ邪魔になるんだよ。
そのときは、おまえら自身を地震兵器の標的、もしくは某国からのミサイル攻撃とでもして一掃するかもね。
さらに、さすがにここは日本でしかも偽装事故なわけで、911のように「いらなくなった奴」までも片っ端から捕まえるようなことは、今はまだ出来ないからな。
俺も含めて邪魔な奴、すべてに対して、そういう手法にならざるを得ない。
あの国は自分自身の利益のためならなんだってやる。
ロスチャイルドが、白人ユダヤをアメリカに追い出したことで、純粋な白人だけが生き残るという思想の今のアメリカはナチス化している。
そしてそれが、ロスチャとロックフェラーの対立につながった。
白人だけが生き残るという思想の奴らにこき使われてるってことだ。
そんな奴らの命令をきく日本人。大部分は、単純に代えが効く、口減らし対象と考えていいだろう。
それ以上の、深くかかわりすぎて、代えがめんどくさいような手先としての重要人物は、子供は2人以上産まないほうがいい。
脅しの手法として、子供が2人いたら一人を薬漬けなどの重病、もしくは処分し、残った1人を絶対に失いたくないと思わせる強力な楔を作る。
これは人間心理学的にも脅しの手法としても実に理にかなった手法だから。
戦争のときは、原爆で証拠消滅は簡単だったろうが、今の偽装戦争の時代ではどうやってやるんだろうね?
こいつら自身の口減らしのことも兼ねて、また自作自演のテロでも日本で起こして、俺みたいなのを逮捕できる体制にするのは十分考えられますね。
あ、そうそう、要らなくなった→口減らし、この「いらなくなった雑巾」という話は、冷戦構造が解消されてからの日本、今の人口削減モデル地区という状況そのものでもあるわけです。
嘘つきは人殺しの始まりです。
デッドマン、ウソツカナイ・・・・、しゃべれもしないけどな。
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15th
1月
2012
汝は観測者なるか?
洗脳の海を越え、陰謀の谷を這い上がり、それでも自身の選択のために観測を続ける者か?ならば、能力の改善を求めよ。
今日は、ちょっと物理学みたいなアプローチで説明したいと思う。
内容は「量子論などにおける観測者効果」みたいな話である。
「観測者」ってとこが肝なわけ。
じつは、この難しそうな話は、普段の生活における「情報を理解する」という行為の本質につながっていて、それが純理系な話だからこそ、逆にわかりやすい話にできる。
ロウソクに火をつける。これを観測する。
ロウソクに火がついてるか、ついていないか至極簡単な○×の事象である。
しかし、これを「観測者」という物を作って説明すると、なんと、「火が付いているのをついていない」とも、「火がついていないのをついている」と説明できてしまい、それでテストで100点の答えになってしまうのである。
ではいくよ。
あなたが、手を伸ばして50センチ先のロウソクに火をつける。
火がついているか、いないかを「観測する」のもあなたである。
実際やったのを想像してもらって・・・
では、「いつ」火が付いたの?
おっと、言い直そう。
「火がついたのはいつ?」で、「観測できたのはいつ?」であるかと。
カンのいい人は気づいただろう。
普通なら「火がつく瞬間なんて見てればわかるじゃん」とでも返答するだろう。
だが、厳密に言うなら、「視覚」光にも速度がありタイムラグがある。
視覚以外もタイムラグがあるわけね。
ロウソクの火ではなく、100円玉などのコインを手を伸ばして机の上にでもペチッと置くとでも考えてみればわかりやすいだろう。
五感、手の触覚は電気信号に変換され脊髄を通って脳に送られる。
机の上に置いた音「ペチっ!!」という音で「事象を観測した」としても音(音速)→聴覚→電気信号なわけである。
手を伸ばした状態、50センチ先のロウソクに火をつける。
この場合の光の速度を遅くして、それを基準に考えてみよう。
「観測とは何か?」という物が見えてくる。
光の速度をもの凄く遅くして、火をつけて、あなたの目に届くまで0.1秒程度かかるとしよう。
火をつけた → 0.1秒 → あなたの目に届いた =火がついた(観測した)
※目に届いて視覚から電気信号に変換される時間は考えない
この0.1秒は、実際は火はついているのに(光が届いていない=火はついていないまま)の状態を見ているわけである。
実際はそのタイムラグが物凄く短いわけだが。
それでも光の速度が遅くした場合でも、基本は変わらない。ラグは絶対に存在する。
さらに、こんなことも出来る。
この光の速度が遅い世界のロウソクなら、全力で走れば光の速度を追い越すことができる。
「火がついた状態」を確認して猛ダッシュ、で振り返ってロウソクを見ると、「まだ火がついていない→すぐ火がつく」わけである
そう、これが巷にいうタイムマシーンの理論だ。
でも、おかしくはないだろうか。
走って振り返っても、時間は遡れるわけではない。
この場合の火のついていないロウソクは、実際はもう火がついているけれど、光が届いていないので、観測できていないだけである。
「火がついている」「火がついていない」という事象を「観測できるか」という簡略した事象の認識のもとでの話なわけである。
まあ、なんだ、あまり長く説明してもしょうがないので簡単にいう。
人間は、どんな物事でも共通だが、「何々が起きた」ということの観測は、自身の五感に頼ることででしか認識はできない。
よって、時間というものの説明の場合は、自分達が観測できる最大の速度、この場合、「視覚」につながる、光に置き換えることでしか説明できない。
そして「離れたロウソクの火がついている状態」というのを「光」以外に観測しうる方法がないために、走って振り向けば「タイムマシーンができた」という話になってしまうわけ。
つまり、「事象の認識は、観測者(当事者)の能力に依存してしまう」
簡単なことで、例えば、「あなたが見えてる青色が、他の人と違って実は赤だった」としても、それは誰も確かめようがないわけである。
観測者の能力は、独立し、不干渉で存在してるために、どんな青い色を持ってきても、観測者には赤に見え、本人はそれを青と思っているわけだからね。
この観測者の特性を量子論などに持ち込むと、昔のキリスト教的な世界観が出来上がる。
「人間に観測されて初めて宇宙は存在する」とか、「こんなに都合のいい物理法則の世界は人間の願望が作った」とかとか。
これらは簡単なロジックで、世界中の物理学者は人間である。
人間である以上、その能力に依存した認識を例にすることでしか説明するすべを持たない。
だから「物理法則+観測者の都合(人間の限界)」で説明するしかない。
後者よりでの説明、人間の能力に依存していることを逆手に取ることをすれば、こういうタイムマシーンや、人間本位的な物理法則ができてしまうわけ。
観測できない物は存在していない物であると主張した場合、観測できない以上、その理論を否定することは誰もできないようになってしまうわけ。
所詮、アポロが月に行ったことになってるのが放置されてる社会、それと同じ科学という世界なわけで、原子より細かいミクロな世界の話では、実際にキリスト教改のスピリチュアルな奴らの理論がまかり通ってしまっているような気がしてならないわけです。
つまり、人間の能力以上のものを、観測したと嘘で作り上げてしまえば、否定することはできないわけだからね。
自分は、そういう危惧を抱いている。地球温暖化詐欺と同じ事をしてるんじゃないかな?と。(あと光より早い物質についても疑っている。)
おっと、俺は物理学者でもないし、夜空の数百年前という過去の光で未来を予想する星占い師でもない。
大事なことは、人間は「事象の認識は観測者の能力に依存する」ということ。
物理法則の説明さえ、人間の主観というか能力に制限されてしまっている。
この星の光でもわかるけど、つまり、実際の観測、500光年先のベテルギウスが「今、どうなってるか」を観測するには、「どこでもドア」みたいなものを作って行ってみるような方法がない限り、人間の能力では観測することができない。
そこから転じて、現実のロウソクの火でも夜空の数百年前の光の話でもわかるとおり、「人間は誤認の状態から認識する』ということ。
火が付いているロウソクを火がついていないと見えることも、既に消滅して存在しないかもしれない天体の過去の光で「星がそこにある」と誤認してしまうのも同様である。
そう人間は、まず誤認した状態から観測するのだ。
やっと本題に入る。
人間は誤認する。それを修正できるかどうかが、すべてである。
これ、物理の世界だけでなく、日常でも一緒。そして世界で起こる311や911みたいな陰謀を「あなたが観測する」うえでも一緒の話。
誤認→修正を意識できない限り、正しい状況把握は絶対に出来ない。
そのためには、人間、そして自分自身の能力という限界を意識しない限り、それは不可能なわけね。
どんな認識も、観測者の能力に依存するのだから。
星の光のように目に見える物が「正しい」わけではない。
かといってスピリチュアル馬鹿のように「目に見えない物を信じる」かのようになってはいけない。人間の能力以上のものを観測したと主張してもダメ。
ではどうすればいいか?
簡単なことで、一つの能力に頼らないこと、そして、その複数の能力たちを改善すればいいということ。
例えば、カミナリがピカとした場合、見た時間と遅れてくるゴロゴロドーン!という音の時間差で、「どれだけ離れているか?」が計算できるでしょ?
音は遅れて到達するという不完全さで逆に、計算が出来るわけね。
「音の速度は遅い」というのも五感からである。
その観測の積み重ねが、物理法則の音速の毎秒331.45メートルを引き出してあったために、計算が出来る。
人間の観測できない、というか感覚器を持たない放射能とかも、元はすべて観測者の能力、五感からきているものね。
超低周波の音でいうなら、実際に聞こえるという音があったから周波数を知って、それが観測できて、その後に低周波の存在も知って、それが人間には聞こえないことを知る。元は五感である。
暖かい、冷たいの五感があって、そこから分子の運動やら水銀温度計のような膨張などに法則を当てはめて行って数値化してできたものが温度である。
すべての物理数値の土台は初期の観測、五感から始まっていて、それを数値化したもの。
だから、それらをもとにして物質を区分けできるようになったり、その結果、放射線の原子核やら電子や電磁波が観測できるようになり、さらには目には見えないマイクロ粒子の観測する計器とかもあるけど、「あくまでも土台は人間の感覚という能力からきている」ということね。広い意味で。
状況認識は観測者の能力に依存すること。
この場合、「音は遅れて到達する」という欠陥。
しかし、その分、「音速は毎秒331.45メートルであることを知っているという改善点」があるということ。
そのために、目の錯覚や感覚より正確に、視覚と聴覚の能力の差から、カミナリの距離がわかるわけだね。
そそ、これが誤認を修正する能力ってこと。
さて、リアル社会の能力の分析のほうでも同じ。
今の世の中は、間違ったというか湾曲された情報だらけである。
実際の状況を写さない光や、遅れて到達する音と一緒。
しかし、光速や音速を知ってれば修正できるように、どう欠陥情報であるか?を知ってれば、逆に修正、計算が出来るよってこと。
そして、それを意識する際には、自分自身の能力という観測者の立場としての能力を意識すること。
そして感覚=情報を別経路で複数判断するという癖を持つこと、だから物後ごとを判断するには、右よりの情報も左よりも必要なの。
どういうことかというと、情報を感覚に置き換えて、みればいい。
今、巷にある新聞やマスコミは、内閣府管轄の記者クラブ及び内閣情報調査室を基準としたCIAの管制報道であると言い換えることが出来る。
それとは違う経路、例えば前回説明した反CIAでスタックスネットというウイルスを使ってCIAとモサドが核テロを起こそうとしたと暴露した有色ユダヤのマスコミ、NYタイムズとか。
視覚と聴覚の違い、その2つから鶴亀算のようにして、カミナリの距離をだしたように、複数の情報(感覚)から導き出すという行為をしなくちゃだめなわけよ。
音速みたいな明確な法則じゃないけど、それぞれの情報の経路のことを意識すれば見えてくる部分もあるわけ。音は遅れてくるというのを意識すればよかったのと同じように。
CIA側、記者クラブでは人工地震とか、意図的にスルーが徹底されるものがあり、まるでそれは、五感で言うなら特定の感覚器、鼻をつまませて何かを強引に飲み込ませようとしている行為に見えるわけ。
こんなブログの読者なら、誰だって「そんな行為をしてるからこそ、隠してる何かの予想(あたり)をつけられる」という回路というか感覚の部分はあるでしょ?
無意識的にでも、表メディアと隠してる部分との鶴亀算(それぞれの特性の違い)を計算して、推測できるようになっているという既に会得してる部分は大小問わなければ、誰にでもあるわけ。
それが感覚なの。
その特性の違いで一番大きいのが、ロックフェラーとロスチャイルドのそれぞれの特性でしょ?
感覚を磨くってこと、そしてその特性を知るって事。
情報とは、それも感覚であって、特性のない(特性の知らない)情報では、何もわからないことになりかねない。
久しぶりにブログを書いて、少しだけだけど周辺の情報ネタを探したりもした。
正直、読者の中で、「情報という感覚が鋭い」という、感覚の回路が出来てた人でさえ、その「情報の分析のコツ」というものが、鈍くなってしまったのかな?とさえ感じたところがあった。
例えば、アポロ捏造についての言論統制が厳しくなったことを説明した。
俺を含めて、アメリカの内戦の可能性を複数の人があげていた一昔のこと。
関が原の戦いじゃないけど、ドルという負け戦で、アメリカの中の「ユーロよりというJロックフェラー」は、ドル絶対防衛の戦争屋であるロックフェラーにとっては、「もっとも怖い裏切り者」というとこ。
で、だから圧力をかけたよ、と。それ以外の視野の部分に広がっていくべき話。
そして、今のユーロ安の仕掛け人が、ゴールドマンサックスだという噂。
(刷り過ぎた機軸通貨のドルとは違って、ユーロ安ではダメージにならないけど)
ドル衰退→裏切り許さず→Jロック→GS→ユーロ安→・・・・。
そして今、日本で起きてる戦争準備のとこ。
全体の進んでいる大きな流れの中で、「裏切りを許さないからアポロ捏造をばらすの許さない」で、311にもつながるとこもあるわけね。
昔と比べてどうなのか、予想できる全体の動きの中でどうなのか?ってとこの感覚が弱くなっている。
なんか、久しぶりの単発の記事だからしょうがないんだけど、「全体の中の重要な要素だよ」と意識して書いてることを理解してくれているわけではないのかな?と感じたわけです。
正しいとこにパズルを置いてもらえなかったかな?ってこと。
アポロについてってだけじゃなく、Jロック、GSのとこ。
武器輸出で戦争準備ってだけじゃなく、北朝鮮ウランのこと。イランと北朝鮮を比較してもいいね。
今までずっと読んでもらってたときと違い、「全体を見えていない」というのは言い過ぎかもしれないけど、「視点が広がっていかない」というか・・・そんな感じ。
昔から見てたサイト、知り合いを、そんな印象持ったことが多かったかな?と。
おっと、厳しい話になったが、忘れないで欲しい。
情報とは、本人の能力、つまり、あなた自身の能力に依存する。
昔、自分のことを「右でも左でもなくバランスのいい」と言ってくれた人もいるが、それだけでは、なんの価値もない。
自分がやれることは、あなた自身の感覚(情報の感知能力)を少しだけだけど改善できることぐらいしかない。
僅かばかりだけど、その自信が自分にはあるから、将来的に有料化しようかな?とも思ってるわけだし。
あなた自身の感覚を鋭敏にする。
けして難しい話ではない。
不可解な音が「聞こえたら」、人間は振り向いて「見る」ということをする。
聴覚から視覚で確認するわけだ。
同じように、情報や物事でも、「こっちから情報がきたら、こっちに注目する」、「こういう事が起きたらここに注目する」というのを、論理的に説明するって行為なだけだからね。
人は、まず間違った状態から認識する。
しかし複数の感覚があれば、計算する、修正することができる。
そして、認識はいつだって本人の能力に依存する。
物理の話が人間の能力に依存するというお話。
物理法則と同じで、情報の世界でも同じ。
311やTPPそして基軸通貨争い、重大で酷いことばかりおきたから視野が狭くなってしまっている。
だから疑って、複数の回路を作って、情報の感覚を研ぎ澄まして全体を見る必要があるよ、ということでした。
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14th
1月
2012
医療ついでに、こんな話をしよう。
前回の続きである。
いまだに隔離されてるチェルノブイリでもわかるとおり、人類が放射能物質の除染作業などに成功した事例はない。
科学=経験であるから、「除染」を強行に進める今の政府のやってることは、科学的根拠のない妄言「天使が舞い降りて汚染を取り払ってくれる」という計画を吹聴している行為と、何ら変わりはない。乱暴に言えば。
「福島で除染を進めなきゃならない」というのは、「正しい姿勢」かもしれないが、方針でしかなく、科学的根拠がない以上、あくまでも「実験」であり、それは確約にも何にもならないものでしかない。
それは必要な分野の「実験」の段階であり、必要な「政策」ではない。
医療でいうなら、未知に挑戦の実験であって、治療という行為にしてはならないということだ。つまり成果を期待していいものではない。
それを約束という政治の世界には、入れてはならない。
効くかわからない薬は飲んではいけないし、政治と同じ契約の世界、お金払った医療で考えるなら、中身が成果がない行為、つまり「痛いの痛いのとんでけ~!」という気休めじゃ、意味ないというか詐欺になるわけである。
自分がこの医者の話をしたのは、最近になって「まあ、人の命なんてなるようになるさ」と思ったこと。
つまり医療における患者的に言いかえるなら、「俺で失敗してもいいぞ!」的な考えにもなったからでもある。
食べ物に、放射性物質が混ざってようと「安全安全!!」というマスコミの報道。
そもそも検査がザルな時点で、規制が数百ベクレルだろうが数十ベクレルだろうが意味ないけど。
この報道についても、ちゃんと考えれば「放射性物質を食べさせる人体実験をして経験的に確かめた」ということをしない限り、絶対に安全とも、どう危険であるともいえないことは誰でもわかるはず。
同じ事で、命に関わることであるほど、医療では道徳上の理由から未知(経験不足)であることのほうが多いわけです。
医療も医者も人体実験(経験)でしか成り立たないわけで。
同じ事、内部被曝という問題も、人体実験とそのデータによる蓄積でしか、この問題も解決することはない。
そういう言い難い正論がある、だから平気で嘘をつくともいえるんだけどね。政府やマスコミが。
これも人体実験が必要。
自分には「医療でのミスを許す患者」に近い思いはあるけど、さすがに「放射性物質を食べます」とは、ならないなぁ。
でも、行動の原理としては同じで「必要」なことなんだよね。
悲しいけど。
内部被曝とかについて考えるのが、めんどくさいから「気にしないよ」という年配の方は多いと思う。でも、それは今回説明した、医者を神様にしてしまう今の医療の問題点を作り出している考え方と同じなんだよ。
考えるのを放棄しただけでしかない。そこからは何も進まない。
マスコミの報道のほうが、科学的根拠がないことでもわかるとおり、単なる妄想を垂れ流し、政府は人命のかかった単なる実験に成果がついてくるかのように思い込ませて金を巻き上げる。
実際は、高濃度の放射性物質も「他と混ぜて薄めて燃やせば大丈夫」というように、放射性物質を除去するのではなく、逆に撒き散らかす行為でしかない。
チリトリなしで箒(ホウキ)を、かけ続けても被曝するだけだというのに。
違う、「高濃度に集積させて隔離」しなきゃ、汚染除去なんて、まったくの意味がない。
プルトニウムは、火葬場なり焼却炉なり、地下水に混ざるなりで、撒き散らかされ続けた場合、何万年も続いて存続し、一粒で何千人も殺す事だって可能なわけよ。
焼いても埋めてもなくならん、隔離(管理)しなきゃだめなの。
そのためにチリトリなしなしの箒ではなく、掃除機をかけて「集める」必要があるの。
現実問題として、自分達はこの放射性物質に汚染された日本で暮らしていかなきゃならん。
医療という科学の一部において「人体実験は必要」というのと同じように、「内部被曝を本当の意味で知るために=これから生きるために、付き合っていくために、放射性物質を食べる人柱が必要」という悲しい事態なわけである。
科学的に対策をとらなきゃいけないためであり、そこから、政府やマスコミが間違ったことを間違っていると指摘するためにもね。
医療を受ける対価という医者と患者との関係とは違うわけで、誰が「その責務を果たすのか?」は、俺にもわからないけど。
「高濃度放射性物質を隔離(管理する)施設を『どこに』作るのか?」という責務から皆が逃げる欺瞞だらけの社会。
「除染という根拠もない行為ではなく誰が責務を果たすのか?」という問題を誰も向き合わない現状に、自分は医者と患者の関係と同じ物を感じている。
おっと、そうだ。具体的な話も、もう一つ。
日本では、西洋医学及び、理化学は140年の歴史、経験しかないことは説明した。
最近、歯医者ぐらいしか行ってないので、それで説明しよう。
西洋医学に限らなければ、江戸時代以前にも医学はある。
日本で最古の医学書は、984年、中国の隋の医学書を写した医心方(丹波康頼)という書物である。
こっちは、1千年前である。
しかし、それ以前、さらに200年前ほどのの7・8世紀の平安時代から、すでに鉄漿(おはぐろ)はあるわけです。以前紹介したね。
歯医者で詰め物をすればわかるけど、今の歯医者の技術でも「歯を塗るだけで強くする」という魔法の薬は、フッ素ぐらいしかない。あと銀とかの話を聞いたっけかな?
フッ素も魔法の薬ではなく、ただ単にどんな物質にも化合しやすいという特性があるというだけです。
例えば、雨合羽などにする防水・撥水スプレーが一番わかりやすいフッ素の特性で、化合しやすいなんて、生易しいもんではなく、スプレーして「刺さる」わけね。
それが細かい刺のようになって、ハスの葉っぱのように細かい刺が生地から水を浮かせて水玉にしてしまうという仕組みなわけ。フライパンも原理は一緒。
歯医者に行って、まあ、フッ素を塗るとか、歯磨き粉ぐらいは「仕方ないか」ぐらいは思えるようになった俺だけど。(医療ミスチャレンジ、バチコイヤー!というのはやめて、こんなとこで折れてみた)
そんなフッ素のこと。さすがに原理から考えると「水道水にフッ素」は賛成できないし、それが無害なわけないだろと思うわけです。
体中のいたるところで化合したり、細かいもんが刺さるようなもんなわけで。(細かすぎてトゲというのはおかしいかもだけど)
「ハリセンボン飲ます」を地で行くなんて危険すぎるでしょ?
あんな可愛らしい魚を飲ますなんて・・・でも別名スズメフグだぞ!!フグだから死んじゃうぞって、あの魚はそこまでの毒魚じゃなかった気が・・。
そのハリセンボンじゃねぇよ。(つっこんどきました)
お歯黒は、あたりまえだがオシャレではなく歯を強くする魔法の医療である。
見かけが最悪という弱点があるけれど。
西洋=進歩的という洗脳によって、日本の江戸時代の文化と同じく「文明開化前=旧世代」として闇に封印されたけどね。
それが140年たっても、キリスト教のようなアンバランスなものでしかないわけで。
お歯黒は、日本の最古の医学書よりも昔に既に存在していて、今の最先端科学以上の機能も持ってるわけ。
注意して欲しいのは、今の医学が劣ってるとかそういうことではない。
むしろ、日本人として誇るべきところだろう。
無論、医学は不完全であるからといって、インチキ医学を容認するつもりもない。
今の歯科医の技術自体が、あのエアートームというドリルが出来てから確立されてきた物でしかなく、数十年しか歴史がないから、「昔の日本の虫歯予防は凄かった」といってお歯黒の話をするのは、貶めてるみたいで可哀相だけどね。
ただ西洋史だけにかぶれすぎてる現代の風潮に気づいて欲しいとは思う。
大事なことは、医学書などの文章などの「形になって残るもの」、それが存在する以前の社会でも、人間は経験から、現代の科学以上の物を生み出すことができていた。
文字や本でなく、人間自体が経験、積み重ねであるということ。
さらには、そんな昔のものが最新科学以上のものもあるってこと、それはなぜか?ってこと。
人間は不完全な生き物だから、宗教を作り、侵略行為をしてきた。
その宗教の延長線上に今の医療さえも重なっている。
そして、その医療についても、宗教と同じ論理で、患者が不完全だから医者を神様のように「完全な物」にしようとしてしまう。
結果、嘘が社会を作ってしまう。そして悪意がその嘘を作るのではない。
放射性物質に対する報道のことも、医者と患者の関係も、科学や医学が進歩せずに停滞してしまうのも、同じ理由の気がしてならないわけです。
答えは「完全なもの」っていう単語の中にあったんだね。
それは、どういうことかというと・・・。
今の西洋からの科学が伝わる江戸時代より以前、さらにそれ以前の本や文章がなかった時代、それより前の人間が猿と区別がなかった時代。
特に放射性物質の話を調べたり聞いたりするうえで、科学や医学が不完全であるということを意識するたびに、この「もっと大きな意味での科学、猿より前から続く太古からの経験論の中に答えがある」と願わずにいられないわけです。
だから、今の医学の問題点などにこうやって目がいってしまう。
言葉がない時代は想像しにくいですが、書物、文字がなかった時代。
それでも科学という経験論は存在するという鉄漿(お歯黒)の話。
文字や言葉という手段の有無が、技術を進歩させる決定的なものではないとも感じています。
結局、「知る」という行為は「自身の不完全さを確かめる」という行為なんだと思う。
知ること、それが優しさだとコメントで教えてくれた人もいたね。
そして、そこから転じて「相手が不完全であることも知る」という事が、正しい人と人の繋がりだと思うわけである。
医者と患者の話も、「お互いが不完全さを享受する」以外に改善する、前に進んでいく方法はなく、医療や科学にさえ入り込んでる宗教というものを考えるのも、「人間そのものの不完全さを考える行為」に他ならないわけです。
逆に、「不完全さを確かめる」のではなく、「不完全さをごまかそうとしてる」「不完全じゃないフリをする」という人間が多くいるから、歪みが生まれるんじゃないかな?と。
マスコミが嘘ばかりな理由だって、完全なフリをしている人ばかりだから、正しいフリができるんだよと。医者が神様になる理由と一緒。
自分自身の不完全さを知らないから、誰かが正しいことをやってくれると思ってしまう。それが嘘で作ってしまう社会の理由。
正しいフリをする教科書、それを「勉強しなさい」という大人。
そして、ちゃんとした大人になりなさいと教え込まれる子供。
人間は、大昔よりも「完全なフリをすること」を加速している。
ダメだよ。「正しいなんてものはない」「完全な物はない」。
人という生き物と同じなんだから
だから「誰かが与えてくれる正しさ」をあると勘違いしたまま、単に口を開けて求めるだけには、なってはならない。
だから、気安く嘘をつく人がいて、安心して嘘が飲み込める。
そうじゃないよと。
医者を神様にしてしまう人がいるように、それに答えようとする医者がいるように、嘘は悪意だけから作られるものではない。だから悪意があるかでは何もわからない。
安心して嘘を飲んじゃダメだよと。
不完全だから、進歩するんだよと。
不完全だから、人間同士の中で糧として残るんだよと。
人間は不完全であり、外れる天気予報のように科学も医学も、現実の一部分でしか対応していない。そもそも人間の歴史なんて僅かな物でしかない。
そういう全部、それらが不完全だからこそ、自分自身の言葉で、人と人は繋がなきゃならない。
人間関係全部そうだし、親が子に、そして孫に伝えるべきものもそうであるはず。
それは誰かが与えてくれるものではないんだよ、と。
自分は、相手へ「不完全だ」と言って傷つけたいわけではない。
「あなた『も』不完全である」として、自分自身とあなた、人間同士の中にある不完全さを互いに「認めて」、そして繋がっていかなきゃならないと思っているだけである。
その不完全さを相互に認めた積み重ねこそが、経験として、糧を残すのである。
不完全さを繋いで何かを作るのである。
そのために自分自身の不完全さを知る、それが「知るという行為」の根源だってことね。
偉そうなこと言ってますが、もちろん自分自身が不完全であることに謙虚ではいたいね。
野生動物が人間的な知識を必要としないように、人間だけが「特異的に不完全さが激しい生物」である。
「多くのことを知りたい=不完全でしょ?」
その人間は、その不完全さから詰め込まなきゃならない物が、あまりにもたくさんある生物なのに、自我の確立に時間がかかり過ぎであり、100年程度しか生きれない。
そして他の生命と同様に死は一度しか訪れず、経験も出来ない。
つまり、失敗するという前提、失敗するために人は生きているのだ。(アンチ保守思想的な叫び)
この死が一度きりという生命の不完全さも、人間特有の突出した不完全さも、今はありがたいとさえ自分は思う。
大昔には、フグは危険だと半分予想して食って死んだバカ人間もいただろう。(ここでハリセンボンに繋がるのか!)
似たようなことやってる俺も。
フグさえ数え切れないぐらい多数の種類がある、それだけじゃなく海でも山でも、そして社会にでも、猛毒は多くの数がどこにでも存在している。
ただ、絶対にそれより多くの、どうしようもないバカが歴史として存在してただろうし、その一部だけは有益な糧、情報として残っただろう。
そういう行為は、バカには違いないわけだし、それも不完全さそのものである。
でも、それが経験として何かとなって残るその理由、その中にある人間の関係を繋ぐ不完全さも、そのバカさと同じ物だよと。
そういうバカは、誰かのために経験=知識を残すためにやってるわけじゃなく、フグ食うのもはスリル求めて・・・俺も同じか?単純に「やりたいからやった」わけである。
馬鹿が馬鹿なりの確信を持ってチャレンジして失敗する・・・生きる目的が失敗そのものだからね。
同じ不完全さが人間関係であり、不完全だから生きる理由であるとも考えられるわけで。
そういうのを知ると、「そっち系のバカの存在」は、ちょっとだけ気が和むでしょ?
けして、勧めてるのではないけど。
過去の壮大な歴史ではなく、今現在のこととして、はっきりいって、もっとも暗黒の時代がやってきている。
そんな時代だからこそ、人と人とが不完全さをごまかさない方向へと世界が進めば、新しい何か見つかるんじゃないかな?
そう思うわけです。
だからこそ、理由であるというだけでなく、その可能性の塊でもある不完全さに感謝したい気持ちになれる。
いつだって不完全から答えは作られるんだからね。
さてさて、「率先して人柱になります」という患者にならなきゃならない風なことを言ってしまったが、歯医者も終わって、おかげさまで健康そのものだったりする。
今後、なんかで医者に行った時に、メスもって、「よーし、チャレンジしちゃうぞ」って闘志燃やされても困るので、健康管理には気をつけようと影ながら、こっちも闘志を燃やすのだった。
最近、無知のまま気にせず歯医者へ行ったりして、無頓着になりかけてたけど。
昔は病院行くたびに結構調べてたんだが・・・。
よし猿に戻って反省しよう。
「ぜつぼうは いつも じぶんのこころが決める」
相田みつをは「しあわせ」のほうだったけど。
やなことばかりの時代だけどね。
そして、こんな世の中はキチガイさえ多数決で決める。
じゃあ開き直ってやろうという思いはある。それさえも自分で決めてやる。
「理屈じゃねぇんだよなぁ」バカがばかであるところだけは。
何かを残すために不完全さを隠さない努力をしてみようと思う。
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13th
1月
2012
医学。
よく考えると医者と患者の関係というのは面白いね。
「医者は親切を装い、患者は責務から逃げようとする。」
病院の壁に「失敗したっていいじゃないか、人間だもの」と、相田みつお風の詩が飾ってある病院は存在しないのである。
医学、もとい科学とは経験論である。
日本に西洋科学(化け学)が入ってきたのは江戸末期というか明治からであり、1868年(明治元年)の大阪にできた舎密局という理化学研究機関ができたのが、発足の目安ともいえるだろう。
舎密(せいみ・chemie)オランダ語で蘭学(メーソン学)からなわけ。元の語源はケミ(古代エジプト語、錬金術、alchemyアルケミーのケミね。)
経験論=実績でいうなら、医学というものは日本では、たった140年の歴史、70歳のおじいちゃん2倍分の経験しか存在していない。
さらにいうなら、医療=赤十字は、イスラム圏では月のマーク(赤新月社)でわかるように、宗教、キリスト教そのものである。
辞書では赤十字=スイスの国旗の逆転が起源という言い訳になっているが、世界のキリスト教の親玉、カトリックのバチカンという本山がスイスの憲兵で管理されてるのでもわかるとり、「キリスト教徒=良い人」という行為のためにできあがったのが、赤十字、今の医療制度である。
元の起源は十字軍までさかのぼる。
アメリカという国を作ったのでもわかるように、キリスト教の奴隷商売でできたのが今の国際金融システム=スイス(世界の中央銀行)、これと医療も同じってことね。
そもそも、病院を一般的にホスピタルというが、これはラテン語のホスピターレから来ている。ホテルも同じ語源。ホスピタル自体がキリスト教特有の言葉。
十字軍の聖マルタ騎士団(カトリック系)の親戚にホスピタル騎士団というものがある。
そもそも、このホスピタル・ホスピターレは「マリア巡礼宿」という意味なわけ。
病院の正式な訳はメディカルセンター。
ね、病院=キリスト教なんだよ。
ていうか、白地に赤十字というのは同じ騎士団で錬金術の起源、テンプル騎士団のマークそのままであるし。
十字軍という異教徒を虐殺し、略奪し、その傷ついた「キリスト教徒だけ」を、マリア巡礼宿・ホスピタルで傷を癒すという行為をしてあげるというのが、病院の起源なわけよ。
そこを守る人=ホスピタル騎士団なわけ。
そういうわけで、今現在も厚生労働省とかはキリスト系の団体と親密である。
医学とキリスト教は、ともに歩んできたことだけは意識する必要はある。
よってキリスト的な価値観とガリレオの地動説が対立したような事例は、昔だけの話ではない、今現在もまったく同じなんだよ。
何かあると「悪魔に取り付かれた」として血を抜いていたようなキリスト的な無茶苦茶な医療が、赤十字を掲げる医療のもともとの土台であるわけ。
それが少し修正された物って感じね。
その修正をしたのが、西欧に経験論の勝利という答えを出した科学、錬金術そのものである。※alchemy(アルはアラビア語の冠詞+ケミ=エジプト語で科学)
キリスト教の中の異端であったアラビア医学が西洋医学の基盤といっていい。
アラビア医学=錬金術(アルコールの蒸留とかとか)。
ここでの説明では経験論の勝利した部分は省略する。
キリスト教というカルト、錬金術というカルト(THE科学だけど)、世の中はカルトばっかりなのだ。
悲しいことに、それとは無関係では生きていけない社会でもあるわけだね。
だから、「それぞれの何が悪い」とかの話は、ここで置いておこう。
もっと大事な部分がある。
おっと、ここでは医者と患者の話。そこに戻そう。
医者は完全を装う。
そう、「人間は誰でも失敗をする」という経験論の必然の部分を患者に伝えることはできないのだ。
これは、「そういうことをしてしまう医者が悪い」というわけではない。
そうしないと「医者と患者の契約」というものは成り立たないからである。
医者の後ろめたい部分と一緒に、患者の立場では「責務から回避しようとする」とも書いた。
それは医学=経験論であるから、どんな医者や看護士でも「失敗をしなければならない」という、逆方向からの必然があるわけ。
だから「患者としての責務」として、患者は「俺で失敗しやがれ、さあかかってこい!!」という立場にならなきゃダメなわけである。
誰かが人柱にならない限り、本当の意味で経験論=医療は進歩しないわけだからね。
患者が、その必然から逃げる限り、医者は「失敗はありませんよ」という誠実を装う嘘をつかなければ、医療自体が成り立たない。
そういうことね、だから、医者が一方的に悪いわけではなく、どっちかというと患者かな?
だから、医者は「誰でも同じ知識・技術があるんだよ」的な説明を、患者にしてしまい。
「誠実を装う」という表現になってしまうわけね。
実際は「誰だって知識に偏りがある」「やったことない治療も存在する」、「間違えるし失敗もする」「医療自体が間違ってることもよくある」「医者がわかんないんだから患者も同等度の知識がないと、わかんねぇだろ」という、いろいろな本音が存在するわけね。
医療が経験論という本質を患者自身が知らない限り、医者と患者のこの関係が是正されることはない。
これでもわかるとおり、「理解」というのは本人(当事者)と事象のあいだにしか存在しないもの。
この考え方の延長線上では、医療における最終的な診断も患者本人がするしかない。
どういうことかというと、理解と同様の構図、この場合、医者は仲介者でしかなく、科学が現実の一部だけにしか適応できないように、医療も絶対に不完全であるため、完璧な答えを出せるわけではないわけ。
その中で診断と決断をしなきゃならないというのが本来の医療という行為である。
よって、失敗という経験の必然のある技術の部分以外、つまり、実際の治療以外の診断や選択などの判断でさえ、それは患者本人と症状のあいだにしか存在できない。
最終的な判断と責任は患者にあり、そのためには医者同等の知識を必要とするわけ。
理解、他人から情報をもらっても本人が調べなおさないと真偽がわからないのと一緒ってこと。
この場合、医者も情報仲介者である。
情報発信者(陰謀論者)である俺と同じで、要点を抽出することしか、医者は説明のすべを持たない。
患者が、その説明、専門用語だらけのそれと向き合わない限り、根拠もなく信じる信じないという、医療は不完全な部分があるというのを無視した、どうでもいい基準になってしまうわけ。
記者クラブに統制されてる部分は誰でもわかるのに、そのメディアを、ただ信じる信じないの基準では、何の意味もないでしょ?それと同じ。
意地悪な言い方をすると、医者は患者と信頼関係を築こうとするが、職人として考えた場合、信頼があろうとなかろうと、判断ではない実行する医療は同じである。
嘘から始まる信頼関係を作ろうとしてしまうのも、医療の不完全さを医者が隠すよう、患者が彼らを追い込んでいるからである。
そう考えると、不完全な人間が宗教を作り出したように、同じく患者自身が不完全だから、お医者さんを想像上の神様にしようとしてしまっているだけなのだ。
患者が、自分で判断する必要性→放棄で、第3者的ミラクルパワーが必要だと切望して「頼る=作ってしまう」→お医者様は神様ですと、こんな感じで作ってしまっている。
嘘でつながっているのである。
もともと、医療と宗教は似てる要素があるんだろうね。悪意じゃない嘘。
微妙に続く。
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12th
1月
2012
とある深夜の病院。
ご主人の症状は、これこれこれ・・・・・・こういうことです。
先生!そんな説明では私にはわかりません。
主人は都道府県で言うとどれくらいなのですか?
『都道府県で言うとどれくらいなのですか?』
正直に言いましょう。
埼玉な状況からは、一時的には持ち直しましたが、今夜が山形県です。
乗り越えるのは、非常に茨城と言わざるをえない。
なんでそんなことに・・・ちばぁあああああ えひめっえひっめぇえええ!
奥様、静岡にしてください、ここは病院です。
あら、気が付いた?
先生が貴方は、すぐ北海どお!ですって。うふふ。
そんな嘘は岩手、自分が長野なことは自分自身が一番わかっている。
俺には、もう思い残すことは名古屋・・・・、
!!!・・・しが・・みえ・・・・・・ギフッ!!!
あんたー!あんたー!秋田ー!
名古屋は都道府県じゃなくってよ!!
・・・・。
久しぶりにネタに走ってみた。
最近、重たい話やら長い説明が続いたので。ちょっと無理をしてみた。
陰謀論も面白くなければ意味がない。ピュー~~。
寒いですね、ご自愛ください。
さて、今、この記事とは別に「陰謀論者でしか答えられない50の質問」というのをテーマにして、馬鹿みたいに長い文章を書いている。
このテーマの意味にもつながるのだが、「なんでこの世の中には、答るべき役職の人達が、答えない質問がこんなにも沢山あるんだろう」という疑問を伝えたいわけである。
結局、みんな「逃げてる」ってことね。
「財源ではなく日本経済の責任問題の質問に答えた政治家がいるだろうか?」ってね。
散々、逃げてきた俺が言うのもなんだけど、言論での責任とは「逃げないこと」じゃないのかなと。とくにそれで金をもらっている、飯を食っている人間なら。
そんなわけで覚悟を決めた部分があるわけです。
ちなみに「覚悟」とは仏教で悟りを開くことという意味もありまして、「覚悟しろ=あきらめろ」という「覚悟=あきらめ」の意味もあります。
覚悟なんぞ、実は、生ぬるい言葉です。
言論の人でよくいるんだが、「新聞などの信頼できる情報で」とかの、馬鹿っぽい論理でするのではなく、自分はただ、誰に対してでも「逃げない」で答えればいいんじゃないかと。
むしろ、信頼や理解というものを第3者が提供してくれる物だと信じこませるためにいるような言論人には、「なんで特定の宗教をその新聞もスルーするの?それが信じる前提条件というのに意味があるの?」という質問を返して、あなたは逃げないで答えるのと、問いつめたいぐらいである。
まあ、そういうことで、今現在はブログのコメントで答えることができない状況ですので、会いたきゃ会いに来なさいという態度でおります。
例え、俺を殺したいほど憎んでた人が来ても同じ態度で接しますので。菓子折とかは持ってこないでね。
これからも「新聞やメディアが基準とかではなく、着眼点から、説明していきたい」と思っております。
それじゃ信用できないよ、と言われたら、じゃあ調べて、それ以上のことがわかったら「教えるね」と。それでいいんじゃないかな?と。
質問や疑問さえさせない奴らがいる、逃げている社会というのを知ってればね。
自分がやれることで価値があることは、そこにあると思っています。
そうする以外、この誰も彼もが逃げ出してる社会を変える方法はないんじゃないかな?と。
それが納得できない人がいたとしてもね。逃げない。・・・ギフっ!!
posted in 俺作成のネタ帳 |
11th
1月
2012
生まれたての小鹿。
足がガクガクして自分で立てない、ひ弱な象徴のように出てくる比喩表現である。
しかし、彼らは立ち上がったときには、何が敵で何から逃げなければならないかを既に知っている。
今日も、小鹿よりか弱い、ほとんどが立ち上がれないという生き物の話。
「人を簡単に殺してしまう集団がいるよ」
陰謀論を簡略すると、この一言は絶対に必要であり、この言葉を他人に伝えることは大変である。
「それを批判して大丈夫なの?」「批判して何が変わるの?」
そういう正論が返ってくるからだ。
「人口爆発、もろもろで、こういうことから、こういうことをするんだよ」、そう説明しても、「はたして伝わるのかな?」という恐怖、返された正論に向き合うことで導かれる恐怖、それらは無くなることはない。
サバンナで生まれた小鹿が人間と同じだったら、「ライオンって怖い存在なの?」というのを教え込むには「奇跡のような物」が必要で、教わる前にただ食われるだろう。
ここらは、「理解というのは当事者と事象の中にだけにあり、本人の能力に依存する」という話にもつながること。
これは人間でも同じ。
それがわかっているから、ちゃんと考える人ほど臆病であるべきだし、俺も含めて陰謀論者は基本的にチキン野郎ばかりなわけである。
これからの地球は、ろ過装置と水槽の関係に似ている。
1%の余裕と1%不足は全く違う。
人類の食糧生産能力という、水槽で言うなら濾過能力を1%でも超えたら、綺麗だった水槽の水も一瞬で腐る。
濾過してたフィルターが、分解してくれるバクテリアの容量を超えたことで、水が腐っていく温床そのものとなり、一瞬に水槽の中は様変わりするわけ。
それが15%の人間がすでに飢餓状態である地球というお話。
ちなみに、TVでいう視聴率15%というのは、その番組を見た本人は、みんなも見てると錯覚する数字だそうだ。
だから水槽を掃除する輩がいる。
そんな中、自分たちはチキンでなければならない・・ならなかった。
怯えながら奇跡を探さなきゃならない。
だから、基本的に臆病ということ、怖がってしまう人のことも自分はよくわかる。
そんな中、だれにも迷惑はかけたくないとも考える人のことも、とてもよくわかる。
正直、こんな水槽の中で「生きること」を中心に考えることのほうが大変だから、開き直った部分が、自分にはある。
今、生まれた子供がいたとして、この水槽の余波に巻き込まれるのは、大きな意味でいえば6~8割程度になると自分は思っている。
これから50年後ぐらいまでにね。
だから伝えなきゃならないという思いもよくわかるし、そうすべきだと思う。
その中で、他人に伝えるというのは重たいよね。
あたりまえだが、自分にも血のつながった家族がいる。
まあ、結婚する気もそれが出来る状況でも、さらさらないので、お気楽でいいのだが。
誰よりも臆病で重たい部分からくる気持ちから、「迷惑かけてもいいや」という気持ちになったのは、きっかけがある。
それは何かというと、以前、言った311のことでもあるのだが、「広島や長崎の原爆と比べれば、福島の放射性物質はたいしたことがない」と言って、むこうの「ど真ん中」の食べ物を食わせようとしたこと。
ファレル准将の報告で、終戦直後の広島長崎に残留放射能はないとして、赤十字の援助を拒否したことかもしらんのかと。
そんな嘘がとおる程度の話。ウラン型でも50㎏、プルトニウム爆弾なんて、いわゆるグレープフルーツ大の大きさである。
炊飯器と、24mプールサイズの規模の放射能がばらまかれた福島を一緒にするなよ、と。
濃度が薄いと言っても、数百トン、MOX燃料は6%だっけ?プルトニウムが。
結婚する気もないし、ストロンチウム、プルトニウム以外のセシウム程度なら、奇形児とかも気にしない立場なので、ある程度は、ただ飯ぐらいとして認可するつもりだったけど、さすがにアウト!なもんがあったわけね。何かは言わないけど。
あと、CIA冬ソナペンションのオリンピックが決まった時、ふう・・・「家族によって売られる人がまた出るのか」と、へこんでた時に、巷でさえ実在しない都市伝説と言われたKPOPのCDが自分の家に転がっていた時。
正直、こんな親が殺されても自分の行動原理の根っこの部分は何も影響されないだろうと確信を持った瞬間である。
幸か不幸か、自分の家族には理解者がいない。
暴力装置であるべきとか、それ以前のコミニティ=生存の確率を高めるということ、それさえも理解していない。
「無知によって殺される」なら、自分の意思で殺された方がマシだよね。どう考えても。
彼らが「理解しようともしない」、この地球という水槽、将来的にどれほどの余波になるかと、それを考えると、親が殺されても根源の部分はかわらないよ、ってなっちゃうわけ。
前回のしろねこさんとかの「考えようとしてくれる人」が、いなくなってしまうことのほうが悲しい。
おっと、勘違いしないでよ。あくまでも心の芯の部分の話。
俺が、今まで好き勝手やらせてもらってきたことも、こういうのにたどり着くことができたのも、親のおかげだし、感謝もしてるし、別に死んでも悲しくないわけじゃない。
理解者だけど、ブログの読者であるというだけの、以前言ったとおり「コミニティじゃない赤の他人」(ごめんね)の方と比べて、もし親が死んでも小さい悲しみになるってわけじゃない。
ペットの死と、お気に入りのマグカップの破損じゃないけど、感じるところが違うってだけね。(酷い例えだな)
理解者のほうが心の少し内側にあるっていう、ごく当たり前の話。
容量の大小ではなくってね。
で、幸か不幸か開き直ってしまったという話。
水槽を意識してしまっていたこと、無知が人を殺すこと、そういうのを意識しちゃったから、気にしなくなったということね。
これは、悲しいけど、ただ家庭の為に忙しいだけで手いっぱいな普通の人にも一緒。
最大多数の為の正論では、人口問題に対する答えは絶対に出ない。
全ての行動は、ただの感情から始まる、で、無理やりにでも正しさなどを区分けする場合、感情から一歩だけ進んだ「理解したい、知りたい」という気持ちのあるなしで、最大多数から選出するしか方法はないと思うから。
何度も言うが、言論封殺なんてものは、最終的に暴力に帰結するしかない。
「自分は、変わらないよ」というのを、そういう暴力の人達が、この文章で理解してくれるとは限らないので、今現在は、自分の命さえ説得力の材料にするような演出をしないかぎり、無駄な迷惑がかかる。
その演出が鼻について、自分でも嫌になるんだけどね。まあしょうがない。
だから、それと同じ「誰かに危険を伝染させる、押しつける」なんて行為で、後ろめたさをブログの読者で感じてる方がいるのなら、自分に対しては全く気にしなくていい。それを代わりにやるよ、ってただそれだけ。
こんな、どうしようもない自分が好きで勝手にやってることだから。
こんな情報がある、こうしてくれ、ああしてくれ、で、この社会が変わる、そんなのがあったら、遠慮せずに、臆病者のまま危険を押しつけてくれて構わない。
今、自分が考えてる「これからやろうとしてる」ことは、「逃げてる人に質問をちゃんと聞きに行く」という行為である。
表に名前出して堂々とやる以上ね。
これを実行した場合、みんなが逃げてる社会のなかで、まだ「質問に答える」という部分が残ってる親切な人だけを吊りだしてしまう可能性がある。
そこは、何とかしたい将来的な課題である。
その部分も考えて「誰もが臆病ものであるべき」という立ち位置、かつ「やろうとしてることの大事な言葉の重み」、両方からなんとかして、糸口を見つけたいと思っている。
危険を巻きこむ以上、自分は誰ともコミニティを持つ資格がない。
永遠の孤独である。・・・悲しいね。
な~んて、そうではなく、そこにヒューム的な考え方で、ちゃんとした条件と可能性のことを付け足すのなら、「自分より危険な人とだけ」コミニティが持てるみたいな話になる。
幸か不幸か、そういう人がわりかし多数いるような社会になってしまいつつある。
小鹿の後ろ脚は痙攣しながらも、力強い。
それに負けない別の何かが人間にもあるだろうからね。
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10th
1月
2012
コミニティとは暴力装置である。
すべての生物の群体は、生存の確率を引き上げるために集団化して存在している。
生物にとっての一番の財産とは自分自身の命である。
生物の命、その財産は暴力行為によって常に奪われ続けてきたために、生命と財産を守るというコミニティにおいて、人間の群れでさえも暴力的に対抗せざるを得ない。
よって、人間の作るコミニティも、集団とは暴力装置にならなければならない。
これは、正しい悪い以前に、コミニティ、集団の義務として明確なことである。
暴力的なものからコミニティの生命を守る、よって暴力的にでも対抗しなきゃならない。
この部分を忘れた場合、コミニティは「誰のどんな財産を守るか」を見失い、他のコミニティによる暴力により、意識的もしくは無意識的に従わされざるをえない。
暴力で犯罪者をとりしまる警察官。治安維持にも暴力は必要である。
それだけでなく、彼らの行使する正義の意味、コミニティは暴力であるという部分を見失ってしまうことで、「本来は市民の生活を守るべき警察組織が、影で好き勝手できる」という現状を作ってしまうわけである。
「市民の生活」というものに、警察が自分達の都合のいいパチンコやら宗教組織への配慮に置き換えて、「それらを守っている」というのを作り出すのである。
これは、人間同士のコミニティ、政府、警察、その他、近所づきあいから親戚づきあいまで、すべて共通である。
つまり、「暴力的にならざるをえない」という部分を人々が忘れることが、コミニティ、組織を悪くする主要因となっている。
そしてコミニティに属する意識さえも希薄にする。
昔、ブログの中じゃないけど、「左翼の非暴力な平和という思想が実現するには、大昔の社会のような隣り合った集落同士が木の棒とかで喧嘩するような状況でない限り、実現は不可能だ」と説明したことがある。
これも、この2つの要素の絡んだ話である。
「コミニティは暴力になるべきだと属する人自身が意識しなければならない義務」。
「その集団のリーダーのような人物が一番の先頭に立つという責任」=「コミニティが暴力ならそれが自分達のために使われてるか監視する、つまり偉そうなこといってる奴が矢面に立つか?責任を果たすか?」
ちゃんとしたコミニティ、それには、これらが不可欠だという理由かだらね。
なんとなくはわかるでしょ?
日本語の「暴力」ではニュアンスが少しおかしいし、単なる「力」だけでは足りない。
よって「暴力」で説明する。
そんな武力・暴力の存在を最小限かつ、ちゃんと存在し、その義務を意識するコミニティ、これを現実的に達成できるのは、そんな状況以外はないからね。
さっきの説明に出てきた、隣同士の集落や、インディアンのような隣の部族と原始的な力で争うという常態がね。
それ以外では、地球全体規模でのコミニティ、「宇宙人と地球人と戦う」みたいなアイアンマウンテンレポートのような話以外ではね。(コミニティのなかの責任は地球規模じゃ難しいので)。
社会全体で実現するには、あまりにもハードルは高い。
コミニティに内包する暴力装置という義務。
その内包する暴力が「自分自身のために、使われるのか?」というコミニティに属する者の監視義務を怠るために、今現在のように腐っていったのである。
これは、今この政府は「あなたの財産・命を守るために存在しているか?」という質問を考えていただければ、その意味はわかるだろう。
コミニティの中の暴力が、「自分達のため」ではなく、「誰かのため」になってしまうのだ。コミニティにとって暴力は義務であることが意識できてないから監視を怠れるのである。
けして、「人付き合いはギラギラして、やくざ風であるべき」とか、右翼的な教育のような「暴力=コミニティ」というのを強調しすぎるような方向への主張をしてるわけではない。
コミニティという集団を作る契約の部分として、「生存を高める」というものの中に、「暴力には暴力で対抗するしかない部分は間違いなくある」というのを説明したいだけである。
あくまでも契約の中にある必然のことという話だ。
とくに日本人の多くは、このコミニティという契約の中の「力の監視」という部分を、かなり見失っている。
何の意味もない、お花畑といわれる完全非暴力の左翼平和思想、左手。
反対の右手も、ただガキの発想でしかない。
日本国民というコミニティとして契約ではなく支配者にとっての都合のいい暴力的な思考へと誘導する右手、その右翼の思想のなかにも「アメリカ様が守ってくれる」という、骨格が存在し、コミニティ自身の力の監視の必要性についての忘却を助長している。
左手は「暴力の完全放棄」、右手は「アメリカへの委譲と間違った一方的に命令されて実行する暴力」。
コミニティを正しくするためのもの、「暴力の監視」という義務。
これについて日本という国は、右と左、両方とも間違っている物を押し付けられたことで、多くの日本人は完全に見失ってしまったわけである。
例えば、副島隆彦とその信者もそうである。
本来なら思想上、「コミニティは暴力でなきゃならない」と意識するべき奴らなのに、日本人らしく見失ってるので、わかりやすいので説明する。
リバータリアン思想というのは、コミニティ=暴力装置というロジックを逆手にとって「政府は暴力装置」として批判するのである。
その結果「白人=キリスト教というコミニティ」という別の暴力への誘導と、「個人で銃を持つべき」という個人防衛主義に、ならざるをえない。
コミニティ=暴力というロジックを使い批判することで、弱まる「生存を高める」という部分を、別の物、銃などによる自己防衛などに頼らなければならない。
主張の方向性としてね。
キリスト教の白人コミニティって暴力装置の権化みたいなもので、それに誘導することも、同じ事です。
リバタリアンという思想は、本来、コミニティ=暴力装置をちゃんと意識しなければならない。
日本では、アメリカのように有色人種への暴力が土台になる白人コミニティでは存在できず、ユニテリアン的なコミニティが落としどころになる。(コメントくれた方ありがてう)
しかし、リバタリアン思想は、政府を批判するロジックを含めて「排他的自由と生存防衛」が中核である以上、方向性、それは日本でも同じである。「リバタリアン=コミニティは暴力装置であるべき」という義務を意識する必要性があるという部分ではね。
ところが、自称リバタリアンで「コミニティは暴力であるべき」を意識しなきゃならない副島信者とその組織は、ダメダメである。
副島本人も創価学会などの国内宗教や組織について、一切スルーして論舌を展開する。
それを、ありがたがって聴く信者。
「言論には一切の制限を設けないべきである」という副島の主張。
しかし、国内のことを当人がスルーでもわかるとおり、「言論させないこと」は簡単に暴力で設けることができる。
それを第一に理解しなきゃならないリバタリアンという思想の奴らが、「言論の自由に立ちふさがる暴力には、自分達も暴力で立ち向かうしかない」という至極簡単な事さえも見えていないのである。
学問道場だのなんだのコミニティのふりをしながら、「副島さん、あなたの言論を制限しているものがあるなら、武力を持って、我々も協力して立ち上がりますよ」とは誰も言わないのである。
むしろ「副島と彼がスルーする奴ら」のほうが、暴力という義務でつながっていて「ちゃんとコミニティをやっている」ということでもある。
そのコミニティ、副島がスルーするという協力だけではなく、副島自身を批判する人に圧力という協力関係が、そこにはあるかもしれないのにね。
俺に対しても、まあ好きにしてくれ。
むしろ、リバタリアンでも副島信者でもない俺のほうが協力したい気持ちがある。
ちゃんとした条件をクリアしてくれるのならね。
ちゃんと「右手と左手から脱した日本を作るために」戦うのなら、刺されそうなとこにでも協力しに出て行きますよ。と。電車賃と飯代くれ。
本当にそれが必要なときや、圧力は、いつでも気にせずどうぞ。
自分は、リバタリアンが「政府=暴力装置」のロジックを使って政府を批判すること自体は、悪いことだとは思っていない。
むしろ、「コミニティ=暴力装置」は、絶対に意識する必要があるわけで、「政府という暴力装置が自分達の為の暴力装置になっていない → 国民はそれを理解して監視する義務がある」、ここまで説明するなら、良いことだと思っている。
キリスト教やら、銃社会やら、政府以外の余計な暴力へと導くのが問題であって、むしろ今のような政府の無秩序暴力の場合、リバタリアンの政府批判は的を射ていることも多いだろう。
その部分で協力したい気持ちもあるよということね。
ときに、昔、副島を匿名で批判するのはイヤだったので、常葉学園がウチから近いので、ヒョコヒョコと会いに行ったら既に副島という教授はいなかった。
馬鹿馬鹿しくなって帰った。家から歩いて10分!!!の大学の掲示板で授業表をのぞきに行っただけの労力だけど・・・。
おっと、他人の集団、他人のコミニティについてはどうでもいいね。
でも、副島信者の話を出したのは、自分は、彼らのような関係、コミニティと暴力装置の関係を無視した「馴れ合いだけの連帯感」を、自分のブログでは読者とのあいだには構築したくはない、ということ。
厳しい言い方だけどね。
これは読者に対して、「誰か助けて!!何かあったら武器を持ってオレを守って!」と言ってるわけではない。
そうである以上、「正しいコミニティ」としての関係を読者と自分のあいだで作りたいわけではない。
ヒステリーっぽい投げやりな話に聞こえちゃうけど、ちゃんと理由がある。
コミニティは生存の確率を上げるために存在している。
もし、そこでコミニティの生存の確率を下げる特異な行為をするのなら、その者はコミニティに参加するべきではない。この考えは、昔から自分はかわっていない。
このブログなどを自分がやってることのワケ。
自分は正しいことをやろうともしてないし、そのためのコミニティを作るつもりわけでも、さらさらない。
ただ自分を表現する、考えを伝えるのに他に手段がなかっただけである。ただそれだけ。
誰かの役に立てばいいなぁという思いはあるが、誰かのためにやってるわけではない。
自分のブログの読者のしろねこさんが、仕事の部下や家族に、このブログを読ませていると聞いた時、本当にうれしかった。
以前の自分の仕事場の社長は、息子の名前を坂本竜馬から竜馬と名づけるような人で、まあ、そういう感じの「いい人達」だったわけである。
そんな人達に、自分の考え、何が正しいかを説得するすべを持っていなかった。
そして、サラリーマンのような仕事では社会の暗部と併合してる部分は、どんな職種でもあるので、それが耐えられなくなって仕事をやめてブログを始めたわけだ。
前の仕事場の人達は、いい人達だったよ。
期待されてたのと、それなのに伝えられない考えがあること、その中で心が揺れ動くこと自体が一番つらかった。
当時は、自分自身も、まだ明治維新からユダヤ様の支配下という構図を今ほどはっきり理解して、説明できる状態ではなかったし。
日本という黒字亡国、自国のためじゃない為替介入のための通貨発行、何のために働いているのか?が、当時も微妙に見えていたから苦しんでいたのもあったっけ。
働く意味に直接つながる信用創造のこと、社長が望んでる株式上場(そして逃げ)の願望自体がユダヤ様の企業のっとり手法であることなどの説明は伝えるのをあきらめて、上司にルースチェンジあたりを紹介して気持ちをごまかしたりした。
そして社会人としての責任。自分のやってる仕事で仲間の家族も飯を食ってるという重み、同時に組織としての呪縛。
ちゃんと考えるほど逃げ出したくなるよね。陰謀論者なら。
まあ、それで逃げて始めた表現手法、このブログも「これが俺のブログです」とは誰にも言えない状況は最近まで続いていたわけだけど。
そんな経緯があったために「自分のブログをコミニティのつながりに利用している」と聞いた時は、本当に嬉しかった。
探してた物が見つかったとさえ思った。
自分は、絶対に目はそむけられないと知りつつも、最近までコソコソとした形での社会復帰を考えていたわけで。
「日本のどこでもいいから、お世話になりたい」とも考えたこともある。
そういう人達の中で働くのなら、あの閉塞感はなくなるんじゃないかな?ってね。
でもね、それはできないし、しちゃダメだと思う。
そして、それをやるつもりなら本名を出すようなことはしない。
なぜなら、コミニティである以上、周りを危険に巻き込む奴はそれに参加しちゃダメってね。
もし、自分の考え方の部分を理解してくれているような社員が、しろねこさんのまわりにいたら、「そういう人は参加しちゃダメ」と主張するべき。
そっちの方が正しい。
自分がやってるのは、表現方法という個人的理由だから、それで周りを巻きこんじゃいけないということ。
結局、読者と自分とのコミニティというか、構築できる関係は、古典的な信頼感は生まれる物にはならないんだと思う。
コメントをくれた人達。昔よくいた「親切なふりで近づいてくる、結局最後は、罵倒だけになっちゃう人」から、「言論封殺は口を塞ぐしかできないというのを実行してくれそうな人」まで。
そんな人たちにも同じように接するしか自分は出来ないし、個人的な理由である以上、世界のどこにも寄りかかる事はできない。しょうがないけどね。
「陰謀論なんぞより明日のご飯が大事」という人、つまり家族というコミニティを優先する人を邪険にすることもできない、それは同じコミニティ=生存の確率を上げるという根本からの正しさであるからね。
結局、自分が構築できる信頼感というのは、自分の言うことをできるかぎり守る事。
だから、この場合も、自分で自分の言った主張を捻じ曲げるような行為、しろねこさんとかに頼る行為は出来ない。
そこらへんは最近より意識するようになった。
まあ、その結果、「コミニティではない」という読者の関係にも気付き、情報を提供しなきゃならないという使命感っぽいものも薄くなって、「俺の情報は俺のもんだ」みたいな考えも、少しだけど生まれてきてるけどね。ほんの少しだけど。
おかげで、のらりくらりと執筆中です。
結局、最大多数のための正論では、この全ての背景にある人口爆発という問題への答えは絶対に出ないともわかっているから。
そして、イルミちゃんたちが大好きな啓蒙主義的(人類が馬鹿状態から離脱すること)なる視点を、その立場での考察に入れるのなら、大量殺人さえ肯定する弁証法的な帰結に陥るしかない。
こんな時代だから、そういうコミニティはどうしても欲しい。
でも、それが貴重だとわかるから、自分自身で自分自身の言った事捻じ曲げて、かつ自分のせいで危険に陥れるようなことはしたくない。
だから、自分とは距離を置いてでも「存在し続けていてほしい」という思いが一番かな?
そういうわけで、しろねこさんみたいな方には、是非、自分が欲しがったコミニティを作る事を頑張ってほしいと思うわけです。
そのためにも、コミニティ=暴力装置みたいな、自分とは違う「覚悟が必要なところ」は意識してほしいし、それは「いざとなったら警察は頼りにならない、あっち側である」という言葉でもわかる、考えたくないけど簡単に答が出るようなことだからね。
しかし、そういう部分を意識すればするほど、「臆病にならなきゃならない」というのも、今まで自分もひたすらコソコソしてたからわかるんだよね。
そういう読者がたくさんいるのも、自分はよくわかってるよ。
ブログにアフィリとかを設置せず、大手ブログサイトも信用せず、今日出てきた副島のとこに直で行こうとしたのも、出来る限り匿名の状態を維持したかったわけだし。
しろねこさんみたいな組織とだけでなく、個人であっても読者や他のサイトとも、自分は距離は多少あったほうがいいと、昔からやってきたわけだし。
それで、もう選択して、開き直ったわけだが。
この世界が暴力装置、そしてそのものに挑む、やれ飛びこむ!というのもわかってるんだけどね。
そういう、「臆病であるべき」というチキンな話、あと、その逆になった、きっかけの話でもしようかね。
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9th
1月
2012
911の一報、「ツインタワーに飛行機が突っ込んだ」という報告を、ジョージ・ブッシュがうけたのは、学校の子供達と一緒に授業を受けていたときである。
311のとき、東北沖を掘り起こしていた張本人、ちきゅう号には子供が見学乗船していた。
さて、今日のお話。
「嘘をついちゃいけません。」
子供に対して、どんな大人も言うだろう。
嘘をついちゃいけませんと。
しかし、大人というのは、「子供に対しては常に嘘をつかなければならない」という、逆のロジックが存在する。
「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」などのように、大人は教育の上で、常に子供に対して嘘を言う行為を常套化している。
それは「理解というものが本人と現実の中でしか存在しないため」でもある。
そして、大人が大人同等の理解力を求めるという前提での説明でしか手段をもたず、「子供だから理解できない」と判断した場合、納得させるためにも嘘を言うのだ。
現実や情報自体が常に残酷であるのが、理由でもあるけどね。
さて、一番最初に書いた2つの話。
ブッシュと地球号のことは、この手法にからんだ話だと思うわけで。
これらの手法は、「大人は子供には常に嘘を言う」というのと「子供には感情にあわせたことしか大人は言いたがらない」というのを逆手に取った、同じ手法なわけよ。
ブッシュの子供に囲まれてる映像は、見たことがある人も多いだろう。
あれは、あのブッシュの周囲、当事者だけでなく、その映像、子供に囲まれてるという状況を見た人に対しても効果のある演出でもある。
なぜなら、子供という存在自体を見た瞬間に、「物事を感情論化しなければならない」という刷り込みを、常に大人は植え付けられているからである。
ちゃんとした大人であればあるほどね。
あの演出があったこと。
むしろ、311のときの「ちきゅう号」が似たような状況だったことを聞いて、自分は同じ手法だとして疑惑を深めた部分でもある。
なんの説得力にもならないけどね。
もし、あなたが、多くの人命を奪う謀略の加担者になった場合、「自分がやった」ということを自覚した瞬間に「子供の笑顔に囲まれていた場合」、本当のことを誰かに言おうと思えるだろうか。
自分も共犯者であるという「黙秘しなければならない」という使命感はもちろん、それ以前に大人は「子供に常に嘘をつかなければならない使命感」があり、子供の視線、その「嘘をついていなければならない状況」という環境下が、黙秘へと誘導する。
さらには、「子供は理解できない」というのと、「誰かに話しても理解されない」という意識さえも重ね合わせてしまう。
そして、小さな嘘が大きな嘘になるのと同じように、大きな嘘さえ小さな嘘と区別させず、本当のことは飲み込ませてしまうのである。
この手法は、「本当の事を言ったら殺される」というのにつける補助装置の手法であるわけ。
子供を使った一つの手法として。
どんな手法かわかってもらえたかな?
311、911、「これらはこの手法なのか?」という話は、想像の世界でしかなく、「あなたがもしそうなら?」と考えてもらったのは、仮の話である。
さて話は変わる。
先日、このブログに中学教師のなりちゃんさんという方からコメントを頂きました。
最初、自分はこの方を、こんなブログで「教員です」と名乗っちゃうなんて「バリバリの使命感の囚われちゃた人かな?」と思ってしまったわけです。
地球と戦うとか言ってた別の読者のhisabou氏とかと同類の。
「子供=感情論&嘘」その権化であるという、この構図があるわけです。
そんな中で、子供相手に教鞭をふるう「教科書だけが正しい」としか言えないはずの教師という職業の方が、こんなブログで「教員です」なんてコメントして頂けるなんて、「何が彼をかき立てたんだろう」と思ってね。
で、彼の紹介していただいたブログを読んでみたら、正直、良い意味でぶっ飛んでしまっていると。
いや、失礼なカン違いして申し訳ない。
くその役に立たない使命感などとは関係もなく、オレのブログに関わったことで何かに巻き込まれる以前に、なりちゃんさん自体が「教職員らしくなく」いつ叩かれてもおかしくない。
そんな方でした。
そういえば、「教職の人が911自作自演について言及して処分された」という、その昔、巷にかけめぐった話、あれには一人歩きした(させた?)部分があったんだね。
それを紹介されていて、非常に参考になりました。あれも一つの手法そのままかもね。
そんな雨にも風にも・・・・って、その程度なら全く気にせず、国際金融資本と自分自身に「負けず」な人に、今までコソコソしてた俺が、言えるような偉そうなことはありません。
(むしろ雨ってだけで完全に負けてる人間のほうが面白いぞ、国柱会の宮沢賢治!!風が吹けば電信柱の影でうずくまり、雨が降ると道端でのびているってか?)
ただ、そんな俺だけど、ブログの書き手と読者との関係を、少し考えるべきと思った事があって、それにあわせて伝えなければならないことがあること。
そこらへんを、次回あたりの記事にしようと思う。
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