檄!客家中国史2 禁忌の内ゲバ【20091015】
さて、客家の話をするうえで、どこから話そうかね。
まず、中国での客家問題は1990年ごろまでは基本的にタブーであった。
客家という「アジアにおけるユダヤ人」に関する書籍が、本家ユダヤ人と比べると圧倒的に少ないのは、「タブーであった」という明確な理由からである。
そこらへんから説明しよう。
誰々が、華僑であるか?客家であるか?という話がある。
これは、「ユダヤ人であるかどうか」と同じ話で、ホロコーストの時にどうやってユダヤ人を区別したか?というのと同じ話である。
確かめられないのだ。
ユダヤの割礼が一部の正統保守派みたいな人達にしか残っていないのと同じように、客家はしなかったという纏足(小足を作る中国の風習)は、今はとうの昔に耐えているわけである。
よって、「纏足していないで円楼で集団生活してるのが客家」という定義自体が、あやふやなものである。
特に海外では、華僑も集団で居住する人達もいただろうし、中国国内でも地方の田舎出身が客家かどうか?というのは、実はあいまいなのである。
そこで、「毛沢東も客家である」という説も一部では言われている。
結論から言うと、それは大間違いである。
彼の母が纏足をしていた事はすぐ見つかるし。
毛沢東は客家ではないが、客家と深く関係しており、それが「客家問題はタブー」というものを形成した理由にも重なっているわけである。
では、そこから。
客家の力の根源、それは語学力である。
中国のように地方によってしゃべる言葉が違うために派閥ができる。上海閥から福建幇とかも、基本は言語であって、+出生地で派閥ができているわけである。
その派閥の中では、通訳のように重宝され、南部地方の中央(北京)への進出をした血縁組織、それが客家である。
毛沢東は語学に自信がなかったため、フランス留学を挫折した。
あたりまえだが客家ではない。
客家は客家でも、広東なまりが激しく、科挙に落ちたのが洪秀全や孫文である。
逆に、共産党、北京の客家コネクションの中心人物となる鄧小平は、フランスに留学し、ルノーの自動車労組から共産党入りするという、ロスチャイルド・グラントリアン路線そのままの経路をたどっている。
鄧小平は失脚と復活を繰り返したが、結局は、イルミナティメンバーともいわれる李鵬(あと20年で日本はなくなる宣言)とともに、中央で客家コネクションを構築する形となったわけである。
この李鵬が、北京閥の後ろ盾的な存在だったようである。
俺みたいな素人イメージでは、北京というと「毛沢東」なわけだが、あの天安門広場にデカデカと飾られている肖像画は誰でも見たことはあるだろう。
今年は、毛沢東の建国60年らしいし。
客家ではない毛沢東だが、実は客家と係わり合いが深い。
これは中国の共産主義の成り立ちの話になるが、中国は欧米のような「労働者階級」というものではなく、「農村階級」のための共産主義へと転化しようとした。
毛沢東が権力につく前、一番最初にゲリラとして立てこもったのは「井岡山」である。
なんてことはない。一部の客家の本拠地である。
毛沢東の革命の第一歩は客家から始まったそうだ。そこにタブーの火種があるのである。以下転載。
中国革命史研究において、客家問題は長らくタブーであった。毛沢東の「井崗山の闘争」から分かるように、最初の根拠地は客家の居住地であった。しかし、井崗山の土着リーダーであった袁文才と王佐は、その後共産党に入党したにもかかわらず、共産党によって殺害されてしまった。さらに江西省党支部内部の「本籍=江西人」と「客籍=客家」との対立は、富田事件という大きな内ゲバ事件に発展した。これら二つは、根拠地内の恥部であり、これらを克服して「中華」「愛国」で抗日統一戦線に結集していくのが革命史の主な潮流であった。このなかで、客家問題は「民族の内部矛盾」として処理すべきものとされ、この問題に触れることがタブーとされたことは見やすい道理であろう。
しかし鄧小平の改革開放期になって、毛沢東時代の総括が部分的に始まると、客家問題も解禁され始めた
まず、意識しなきゃならんのは、中国共産党は客家が作ったのである。
当時、モスクワ(コミンテルン)→中国共産党と繋がっていたが、共産党自体が客家そのものの作品と考えても俺は良いと思う。
簡単な中国の歴史の紹介は次回に回すが、毛沢東は、中国の山間部を「長征」という逃避行的な行為をした。
ほとんどの毛沢東に関する書籍が、客家との関係を一切無視して「毛沢東、山間部ゲリラ戦で略奪と静粛で力を貯める」みたいな書き方をしている。
しかしこれは、明らかにおかしい。
素人考えでも、山間部というゲリラ戦向きかもしれないが、「略奪」に適してるとは思えない場所をひたすら彷徨った「長征」が、単なるゲリラ戦と略奪のための「目的のない長期遠征」という軍行動とは思えないのだ。
中国共産党が客家の作った党であると認識してるだけで答えは出てくる。
客家は客家同士(同姓での結婚は許されない)ため、客家の中心地を巡るようにした長江は、親戚を訪ね歩き、「各地の客家の協力を得る為に彷徨い」、その場所場所で「客家に都合のいい農地解放」をして「勢力を貯めた」と考える方が、筋が通っているのである。
反共っぽい人達の出す、明らかにおかしい静粛の数字は捏造だろう。
しかし、こういう遠征だったわけで、その場所場所で、ライバル中国国民党、蒋介石側と「こっちの味方しろ」で争って、「かなりの静粛」というのが起きたと考えるほうが筋が通るのである。
さらに先ほどの井岡山からの対立、「本籍=江西人」と「客席=客家人」の対立があるわけです。
1930年にこれは富田事件として内ゲバの静粛につながるわけですが、この時の対立軸はこうです。
「江西出身」 VS 「客家+毛沢東」である。
つまり、客家ではない毛沢東も客家側についたのだ。
中国共産党内の対立で客家が生き残りイニシアチブを握った。
この時、中国共産党の創設者、陳独秀は追い出されている。
ね、客家に付いた方と客家に反対した方が対立し、客家が生き残ったのである。どう考えても中国共産党は客家の党であるわけだ。
長征で客家の協力を求めて彷徨った事とか、ここらへんの信憑性も高くなってくるでしょ?
それなのに、毛沢東と客家の話を記述した書籍などは少ない。
「軍人が目的もなく山を彷徨った」&「平地ではなく狭い、山間部で農地解放した」と考えるのはいかがなものかということだ。
つまり、客家が中国共産党を作り、客家の手助けを得る為&都合のいい支配体制を作るために毛沢東は立ち上がったと考えられるわけです。
それでも共産党本部というか、その命令系統モスクワ(コミンテルン)は「客家を裏切った」わけである。共産党入りした客家、袁文才と王佐を殺してしまったわけだから。
だから、非客家の毛沢東もそこらへんでは、客家から人気はない。
こういう内ゲバや、複雑な話から「客家はタブーになった」と考えれば、説明できる事が多いのである。
対立があったし、実質中国の中の人が、共産主義(コミンテルン)と対立しただろうと考えるのは、普通の人は意外かもしれません。
実は、客家はかなりの反共(反共産党)な部分がかなりあるんです。
そして中国という国の形成(コミンテルンの指示)が、客家に都合の悪い事をやってきたのも事実です。
そこらへんを軽く。
例えば、客家による南部出身者の中央進出の独占体制が、北京語を話せない上海閥の中央や軍部での台頭に変わったのもそうです。
あと、客家の国、シンガポール(リー・クァンユー)が日本でも残ってる共産党を根絶やしにたこと。
さらには、1965年に「客家の新エルサレム」として建国されたシンガポールが、北京と1990年まで国交を結ばなかったことまでも理解できるというもんである。
中国本国と距離をおいていた訳です。
これと同じように、客家の広東閥も同じように広東モンロー主義で、中央などと距離を起きました。
今の客家組織の大親分は、このシンガポール、リークアンユーなわけで。
以前に説明したとおり、CIAも手が出せない人でもある。そして反共、反共産党でもあるわけ。
ここらへんは、客家と共産主義本家=ソ連コミンテルンの中の人との対立だね。
まあ、簡単に言うとこんな感じです。
では、ここらへん、客家とサッスーンとフリーメーソンと、で、やっとコミンテルンの動きの順番で注目して、中国の歴史を軽く書いてみる。
毛沢東を担ぎ出したのが、ソ連のコミンテルン(モスクワ)であり、スターリンではある。
1936年、毛沢東の中国共産党が、中国国民党の蒋介石と入れ替わり第一党になることで、それは実現した。
しかし、その実質的な行動を取ったのは、張学良という人物である。
もちろん客家だ。
共産党を作ったのも客家だし、別の国で共産党を潰したのも客家である。
こういう裏工作と、内ゲバの中で「客家はタブー」となったわけだ。
だから、対立と協力の歴史を知る必要があるのである。
客家シリーズは長くなるけど、それではお付き合い願いたい。
posted in ガイドライン, 未分類| Tags: CIA, グラントリアン, コミンテルン, サッスーン, シンガポール, ソ連, フリーメーソン, 中国, 井崗山, 共産党, 国民党, 天安門, 客家, 富田事件, 広州閥, 新エルサレム, 毛沢東, 禁忌, 科挙, 纏足, 長征 |
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