虚空と君のあいだに

センチメンタルマネー【20100410】

10th 4 月 2010

センチメンタルマネー【20100410】

 
 
恥ずかしながら、最近になって、やっと、お金の本質が見えてきた。
 
今頃になって自分が気づいた物、それは、普通に言う本質のことではない。
「中央銀行、通貨発行権、信用創造、単なる紙切れ、電子的な数字・・・・・。」
こういう本質の意味じゃなくてね。もっと別の本質。
 
今までは、自分のブログの中で、お金というものは「世界を操る2種類の力」としか説明せず、「お財布に入る権力」という言葉だけであった。
 
 
前回の記事で、「認識や理解の前に、感情が存在する」。
 
これが「人は信じたい事を信じる」という本質と説明した。
この話の延長線上に、別のお金の本質が見えて来るんだよ。
 
すべての認識の入力に、感情というバイアスが入ってしまう事を考えた場合、人間の行動や活動を「感情的な行為として検証する」必要があると感じたわけ。
 
 
むずかしい?
 
まず、分析の基本というのは感情を消す事が、最低限のノルマなわけ。
例えば、「自民党が嫌いだから→民主党を応援する」では、感情「嫌いによる反動」みたいなのが、民主党への姿勢に対して入っちゃってるわけでしょ?
 
そそ、バイアスがかかっちゃうわけ。
やってることが、正しい事なのか間違ってるのか見えにくくしてしまう。
 
 
だから、あくまでも感情は消す。
それが分析の基本。
 
だから、俺もお金についても、そういう認識だけで考えていた。機能だけを追いかけていたわけね。
それが、「お財布に入る権力」という表現。
中央銀行から発行されて、市中銀行に周り、ベースマネーとして信用創造し、マネーサプライの増減が経済活動に影響する。
そのマネーの洪水や干上がる行為で、いくらでも経済はコントロールできてしまう。
これが機能、経済活動を支配する権力としての能力だね。
 
でも、片手落ちだったんだ。これでは。
機能ではなく、マネーはツールである事を忘れていた。
 
なぜ、中央銀行や通貨発行権のことを大衆が理解しないか、自分は疑問を持っていた。
なぜ、こんな紙切れをありがたがるのか、「単なる信用である」という本質を気づく人があまりにも少なすぎる事。
常に不思議だった。「刷ればいいじゃん」って事さえ気づかない人が、なぜこんなにいるのかと。
実際はロスチャがやらせてくれんけど、「財源がないなら刷れ」と言わないことでもわかるよね。
 
 
過去にブログで、拝金主義という言葉も今まで使ってきた。
宗教の一種であるかのように。
しかし、それは「お金がないと生きていけない」という社会の帰結としての宗教で置き換えた表現であって、お金というツールが構成されている要素を、見失っていたわけ。
 
 
認識という入力には、まず先に感情が入る。つまり認識はその結果でしかない。
なら出力も、同じ感情の表現形なんだねと。
 
つまり、「人間にとっての出力=行動は全て感情である」という基本を忘れてたわけ。俺は。
それは、「マネー=お金=感情の一種」でもあるということ。
乙女ちっくな話になるが、まあそういうことだ。
 
文章を書く、言葉に載せて表現する、これらは難しい。
難易度の高い出力=表現体系であって、普通の人は政治ブログも経済の話もしない、=「出力しない」わけね。
いい加減じゃないと出来ない部分もあるしね、っあ!!
 
だから普通の人にとっては、日々の経済活動=お金を払うことが、「出力=感情」の意味合いが強くなってしまう。

難しい本を買っただけで、理解した気になったりするでしょ?
これは「理解したい&でも難しい」という感情が、お金で所有権を得る行為で出力されてるわけね。
経済活動はその繰り返しであり、いつしかお金と感情が相関してしまってると思うんだよ。 
 
だから、お金の本質(今まで言ってきた機能のほうの本質)が、理解できないというか、認めたくなかったんだよ。
 
それは、「自分の感情=無機質な中央銀行が製造するもの」を、意味することになるから。これではイヤでしょ?
「紙幣=単なる紙切れと信用」=「自分の感情である」とは考えたくないわけ。

お金を感情と同一視してしまったんだから、経済活動という行動による出力の積み重ねによってね。
だから拒絶していたという部分があったんだ。錯覚なはずなんだけどね。
 
 
今まで、論理的に説明すればいいとだけ思っていた。
機能としてのお金をね。でもそれでは足りないんだ。そう、やっと気づいたよ。

お金の話は、常に感情を考察しなければ、「経済活動だけが出力」=「お金=自身の感情」だと考えてしまう人達は、確実に論理的な帰結には向かわない。

感情的な理由だけで、嫌いな食べ物がある幼稚園ぐらいの女の子のように、論理的だけでは太刀打ちできない部分が、お金というものにはあるんだと。
経済活動をしてる全ての人にとって、お金=感情であるからね。
だから、今まで伝えることが出来なかった人達が多くいるんだと。
 
感情的な説明、感受性にあわせた表現もできなきゃダメだったのかな?と。
相手の感情に合わせた出力だから、こっちも感情を入れなきゃダメということでもあるわけね。
 
それも、お金の本質なんだと、今頃になって気づいたわけ。
分析する際のくせで、感情という部分を読み落としていた。
 
 
家族のために働く人がいる限り、好きな子のためにバイトしたりする人がいる限り・・・・。
常にお金は感情という出力に変化していること、それが逆に無機質な機能を覆い隠してしまう。
ロスチャイルドの支配する道具という意味から目を背けてしまう。
 
中央銀行を認めたくない、単なる紙切れと認めたくない、それは自分の感情が紙切れのように錯覚してしまうからなんだと。
感情が他人、中央銀行などのような他人の意思で作られることは、生きてる事の否定にもなっちゃうからね。
これは、第三者の洗脳や教育で価値観が作られ、そこから感情も生まれること、それを個々としては「認めたくない」と考えることと共通の事でもあるね。
 
 
これは今まで気づかなかった、ツールとしての機能以外の「要素」なんだね。
 
 
やっと、今頃になって気づいた。これもお金の本質であると。
とくにお金は、感情的なんだと。
 
理解という入力も感情に左右されるのなら、出力も感情に変化する。よく考えれば当たり前だよね。
『がんばって働いてるから「ただ刷ればいい」という奴等がいることは認めたくないのではないか?』、これぐらいの理論で、あらかじめ否定する資質があるんじゃないか?ぐらいにしか考えていなかった。
 
 
でも、やっぱ感情を剥き出しで9条ヒステリーの社民党やら、反共ヒステリーのような右翼カルトみたいな文章、それでは、お金や経済問題を説明したくないし、俺には出来ないぞ。
 
うーん、難しい。
 
感情的な奴を相手に、感情的に反論したら、そもそも議論は成り立たない。
感情的な女性に、論理的に反論する男は、実は、その時点ですぐ嫌われるそうな。
 
どないしろと?
 
 
分析には感情を消す、しかし、機能として感情がどういう物であるかを考える事も必要なんだね・・・。
感情と認識や行動は不可分であるから。
 
うーむ、見えてきた部分なわけだが、改善点なんて、相手の出力をちゃんと受け取ってやるぐらいしか、方法はないんだが。
コメ含めて、他の表現形を大事に聞くようにするとかね。
お金ではない出力があることを、ちゃんと伝えられるように、お互いに意識できるように。
 
まあ、論理的にみせかけて、「感情=お金」に変換させて、対価をせびる論者には成りたくないけどね。
宗教も、感情という出力の公倍数を求めた行為、種類分けみたくなってるのかもね。
 
 
 
 
 

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16th 12 月 2009

哲学による理性(副島編)【20091216】

 
 
「大衆が馬鹿であるか?」
「そして、それは経験から改善することができるのか?」
 
これが、哲学の基本である事は書いた。
 
おっと、俺のこの質問に対する答えを言ってなかったね。
 
「ばっかぁでぇえええす!!!俺って馬鹿だもん!」
「搾取していいのは親からだけ。生きてていいのは今のうちだけ!!」
問い2の答えは、「知るか、馬鹿野郎!」
 
 
いやっほう!!
 
さて、では今日は副島あたりの話で料理するか。
 
上記の質問で、理性という言葉の意味の種類が変わることは、前回説明した。
 
理性(※1※2※3)
1 社会構築の上で必要な要素としての理性
2 人間の良心的な道徳としての理性(経験的な改善によって蓄積される)
3 ヒューマニズムのたてまえとしての理性(改善も蓄積もない&みせかけ)
 
 
とくに、2と3は、良い理性と、悪い理性である。

しかし、現実として社会は、人間の欲でできており、道徳や美徳が積み重なって構築された物ではない。
これを懐疑的経験論=大衆は馬鹿という理論に帰結する。
 
「逆に世界は良い人が作ってくれたの。」という、お花畑思考は、社会自体の崩壊へと突き進むわけである。
ま、ここらへんは前回の記事を参考に。
 
 
じゃあ、副島の話を持ってこようかね。
まず、前回の補足として説明しとかなきゃならないことがある。
 
日本語の「理性」という言葉を作った、訳で生み出したのは、日本最初のフリーメーソン、オランダでメソになった西周である。
五箇条の御誓文も西が草案を書いた。
さて、ご先祖様が同じ事をやってた(政体書草案)副島隆彦はどうなのかを見てみよう。
 
 
 

282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 17:51:54 ID:LvF65/pQ

http://www.snsi-j.jp/boyakif/wd200601.html

そうしないと、日本人の政治思想や、欧米近代思想の、日本への本当の移植が、出来ない。
みんな、岩波文庫の、訳の分からない日本語文で、ジョン・ロックや、ホッブズや、モンテスキューや、スピノザや、ライプニッツや、デイビッド・ヒュームなどの翻訳書を読んだ振りをして、何も分かっていないのだ。
特に、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』の本の理解が全く出来ていない。へーゲルも、ニーチェも半分ぐらいしか、解読できていない。
(中略)
私たちは、3年ぐらい前から、reason リーズン は、「理性」(あるいは、理由)などというコトバで、訳して、日本人の知識階級は、それで分かった気になって、実際は、何にも変わっていなくて、アホダラ経の有り難い、お経を読むように難解な日本語翻訳文で、何か分かった振りをして、それで、偉そうに、「自分は高学歴で、知識階級に所属する」と、勝手にうぬぼれてきた。
私、副島隆彦は、そういう人間全員を許さない。もし、上記の私の「真実読み破り訳」にケチを付け、異議を唱える者がいたら、その者は、どうどうと名前を名乗った上で、私に問答を提起してきなさい。私が、10時間ぐらいかけて、懇切丁寧に説明します。分かったふりは、一切、無しだ。どこからでも、どんなコトバを使ってでも、すべて解明されなければならない。自分が分かったふりをして、私、副島隆彦をせせら笑うようだと、その自分自身の、脳天が逆襲を受けて、激しくもんどり打つから、覚悟しなさい。私には、いい加減な日本土人(どじん)の分かった振りは、一切ないのです。
 
 
 
283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 17:52:58 ID:LvF65/pQ
私は、5年ぐらい前から、reason リーズンとは、reison レゾン(存在の根拠)と同義であり、さらには、ratio ラチオ、レイシオ 「合理」と同義である、とずっと説明してきました。ですから、rationalism ラシオナリズム、ラッショナリズム、「合理主義」とは、「利益の法則」であり、「損得勘定の思想」であり、「投下した労力に対してそれに相当する利益を得ることである」である、と解読してきた。だから、それが、ユダヤ思想(ユダヤ教とも訳す、Judaism ジュダイズム)の根本の思想だということをずっと、しつこく説明してきた。
ユダヤ教(ユダヤ思想)を知るには、モーゼ五書や、タルムードなどの教典を解読することがユダヤ思想を勉強することだというものではない。それは日本人には困難を極める。そうではなくて、ユダヤ思想の原理は、金儲けの精神であり、ラチオ=リーズンなのだ、ということだ。これを、強欲の精神とか、拝金主義とか、訳してもいい。えー。そんなに簡単なことなのか、と私に聞き返しても、どうにもならない。これで、読み破れたのだから、それでいいのです。

 
 
なんだ、こりゃあ!!!、理性=拝金主義という話は・・・。

最初に言ったとおり、まず理性には3つの種類がある。
 
副島は、「理性=社会構築するのに必要な要素」に、「拝金主義」を無理やり当てはめただけであって、それは理性(ポジション)に「拝金主義」を押し込めただけで、「理性の内容」ではない。
 
だから拝金主義でなくても意味が通ってしまう。

違う、内容を理解しなきゃダメなのだ。
理性の内容を理解するのは簡単である。
「大衆は馬鹿であるか? 」ってことの答えがそれだ。「大衆は=馬鹿」という思考は、懐疑的経験論になり、「選民思想」である。
「大衆ではない、選ばれた者が社会を構築するべき」となるわけである。
 
副島は選民思想のほうだ。つまり、「懐疑的経験論=大衆は馬鹿である。」のほうね。
ま、「世界は善意と、半分はやさしさでできています。」なんて、頭痛のする理論よりはいいだろう。
 
 
つまり、副島はイルミナティ、「選民思想の支配者側の理性」なの。

だから、彼は、大衆には(彼の読者や、俺には)、「理性=幻想」つまり、「馬鹿である大衆に、社会構築における要素を与えてはならない」という、懐疑的経験論の立場を表明できないの。
だから、カントの事がわかっていないとか言ってごまかす。
「大衆は馬鹿か?」って質問だけでわかっちゃうし、彼の場合、答えるまでもないのにね。
 
イルミ→大衆(こう思ってて欲しい) 良心や道徳=理性
イルミの本音 そんな理性=幻想、錯覚、馬鹿には危なくて持たせられない。
 
 
イルミナティの聖典は、「幻想である理性を大衆(馬鹿ども)が妄信する事」を目指してるの。
民主主義や、世論、マスコミ、道徳などが、全て支配されてるのを気づかなければ、全ての問題は解決するってことね。
 
 
で、これを素直に書いてしまうのは不味い。
副島は考えた。あくまでも「理性=道徳」で、大衆に与えなければならない。
だから彼は「間違った道徳=拝金主義」を、理性(社会構築する上で必要な要素)に無理やり当てはめたの。
彼が本で書いた、「ネイティビズム VS ビヘイビアリズム」という思想も、もとは、このヒューム的「大衆は社会構成の一員たりえるか?」と、ロックの「経験で改善できるか?」ってとこなんだけどね。
 
 
ね?簡単な話でしょ?
 
ただ、補足として、後半で「合理主義」=理性という言葉になるのは、イルミナティ本流=進歩主義(前回の記事参照)になったから、その社会構築要素(ポジション)として、「理性=道徳や良心の中野一部としての合理主義」って使われてるって事かな。
たまに、信仰の対義語的な意味で使われるけどね。
 
ま、簡単な話です。
 
 
理性という言葉が出てきたら、「大衆の社会構築における要素」、「行動倫理」とかに置き換えればよいだけ。それがポジション。
中身とは別だから。
 
で、中身の説明を探せば良い。
なければ、何の意味もない文章ってだけ。例えば・・・さっきの事で説明できる。
 
例:「理性によって、キリスト教的な価値観が破壊された。」
 
キリスト教徒には「意図的な悪意」によって、と読み替えればいい。
「意図的な悪意によって、キリスト教的な価値観が破壊された。」
キリスト教徒には悲しい文章だ。「【無残に】価値観を破壊された」という根拠になる文章である。
 
逆にアンチキリスト教徒は、「人間の良心(意図的な善意・行動倫理)によって、キリスト教的な価値観が破壊された。」と読むかもね。
この後の文に、「よって同性愛者の人権が確立した。」とか、「中絶によって社会的に救われる人が生まれた」と、つけれそうな文章になるね。
「【正当に】価値観を破壊した」と読める文章になるわけだ。
立場によって180度意味を替える。
 
 
一つの文章じゃ読み解けないんだよ。
 
選民思想、世界を操るイルミナティにとっては、理性(意図的な悪意・イルミが大衆に与える幻想)=虚無=他、操作可能な価値観によって、行動原理(ポジション)が決まるのが理想であると、ファウプトも言ってるわけですよ。
 
支配者の文章を、人間の良心って読んじゃダメという、フリメ製の簡単なトリックだよ。悪意で読みなさいと。

それは、大衆が馬鹿か?つまり、選民思想があるかどうかでわかっちゃうよ、って言う簡単なお話でした。
で、「選民思想=大衆は馬鹿」の場合は、悪意より「権利が無いこと」=虚無=「幻想や錯覚」で読んだ方が、わかりやすいよと。
 
副島の図式とかは、「選民思想=副島」から、「大衆」が、「ほんとは錯覚なのに、金はらって善意と騙されて、ありがたがって買っている」という、悲しすぎる図式である。
 
だから、「搾取して良い」という選民思想が、副島の理性(行動倫理)なんだよね。
 
 
 

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15th 12 月 2009

イルミナティ哲学の探訪【20091215】

 
 
猿でもわかるイルミナティ哲学。
 
原文はもちろん、訳文も読まずにGOGO!!
 
 
哲学の基本は、「大衆(夢遊病の群集)は、いつまでたっても馬鹿であるか?」から始まっている。
 
このディビット・ヒュームという哲学者から生まれた「大衆って馬鹿なんじゃね?」ってとこから、共産主義も、保護主義も自由主義も来ている。
進化論とかもね。
 
 
その過程で3つの意味の理性が生まれる。
 
理性(※1※2※3)
1 社会構築の上で必要な要素としての理性
2 人間の良心的な道徳としての理性(経験的な改善によって蓄積される)
3 ヒューマニズムのたてまえとしての理性(改善も蓄積もない&みせかけ)
 
2が「善」なら3は、悪みたいな、表と裏の二元論の理性である。
 
 
そこらへんを、わかるように説明する。
 
まず、イルミナティ(グラントリアンとスコティッシュライト)というのはロックを肯定し、カントを否定した。
実際には、理性批判で思想的にはヒュームに近く、ロックよりは、カントのほうが近いんだけどね。
形而上学的な神学の取り入れた事以外は。
理性批判なのに、イルミナティは理性が唯一の聖典???、それは後から見えてくる。
 
ロック、カント、ヒューム、単語が出てきましたな。人名ね。
簡単に説明する。
 
 
ロック 経験論の代表的な哲学者。(ポジティブ経験論)
近代民主主義の思想の祖ともいえる人、その根本は「経験は改善を促す」という、社会は失敗を繰り返して良くなるよというポジティブ思考。
よって、この思想が民主主義=「大衆が反省の積み重ね」という考え方になる。
失敗を繰り返せば、正しい事が過半数を超える日が来るさ。ということ。
 
カント ヒュームから懐疑的経験論を引き継ぐ。
社会は理性(※2)ではなく、欲で構築される=「大衆は馬鹿なんだから、反省なんてしないだろ?」失敗の積み重ね=民主主義で改善されることはない。
カントは「神、不死、自由」を理性(※1)として承認した。
 
 
そして、イルミナティの哲学の根幹、ヒュームである。
 
ヒューム 懐疑的経験論 そこからくる無神論的な思想。
     エジンバラ出身! ロックの経験論を継承し、カントに影響を与えた。
人間本性論  理性を強力に否定。ヒュームも社会構築は、「本能でしょ」 という理性(※2)の批判的見解、つまり、理性(※3)である。
 
 
イルミナティ思想は、ヒューム哲学を改善したものに非常に近い。よって、その懐疑的経験論を引き継ぐ、カントのほうに近いわけである。
しかし、彼らはカントを否定し、思想的に遠いはずのロックを肯定したという。
 
そこらへんを、3つの理性(※1 ※2 ※3)とともに、説明したい。
カントから説明する事で、ヒューム哲学の問題点が明らかになるからだ。
 
 
社会構築の要素としての「理性(※1)」は、要素というポジションである。
「左ウィング」みたいなものだ。
これだけでは、内容(スポーツの種類)は、わからない。
サッカーなのか、ラグビーなのか。アイスホッケーかもね?
その内容になる部分が、2、3の違い、2元論の理性、建前にすぎない物かどうなのか?ってことである。
 
ヒュームとカントの理性は、批判的経験論、※3=ヒューマニズムの仮面としての理性である。単なるみせかけ、何の意味もないほうね。
社会構築の要素として理性(※1)というポジションは、機能していないことになる。

よって、この左ウィングに、共産主義という左サイドのスペシャリストがアップしはじめてるわけです。このポジションに誰もいないってことだから。
 
これがヒューム理論、懐疑的経験論の問題点である。
 
この理性の否定(※3)は、「大衆は馬鹿だから、社会構築の要素に民主主義はなりえない」ってことね。
そこで、カントは、理性(※1)として「神」を認めた。
ウォルフ、ライブリッツなどの人物の形而上学的な理論を持ってきたわけだ。
(形而上学=神とか霊魂とか、まあ科学的現象では説明がつかないものを根本原理とする考え方)
 
理性(※1)=社会構築要素に、神という(価値観のツール)を持ってきて、「馬鹿な大衆を騙そう」としたのが、カントである。
 
ロック「大衆は、今は馬鹿でも経験をつめばきっと良くなる」
ヒューム「大衆は馬鹿だ。だけど、誰が社会構築したらいいか、わかんねぇ!」
カント「大衆は馬鹿だ。よって神というのを作ってコントロールすればいい。」
 
これが簡単な3人の思想である。

イルミナティの思想は「大衆は馬鹿だ。だから俺達が社会を構築してやる!!」という、まともな(!)考え方である。けして、ロックに近いわけではない。
 
イルミナティがロックを肯定した部分は、ロックが経験的な改善の障害になるとして、王権神授説を否定し、社会契約説をとったことにある。

神様から「理性(※1)=社会構築の権利を自分達だけが授かったんだ。」みたいな、日本の天皇賛美の右翼や戦前の話を思い出せば、誰でもわかるだろう。
それをわかるのも、「経験が改善を促してる」わけだ。
 
そしてカントを否定した部分は、「大衆は馬鹿だから、神様で騙そう」という部分である。
神、霊魂や見えない物などの全てを否定した自然学に分類されるヒュームを、カントは引き継いだのに、逆にカントは、理性(※1)に「神」やらを持ってきてしまったわけである。
社会構築に神というツールで、馬鹿な大衆を統制しようとした。
これはモーセとかと何も変わらない。
これは、カトリック世界の中から生まれて来た、百科全書を聖典とする科学探求サロンが起源であるイルミナティが賛成するはずがない。
 
 
しかし、ヒューム理論の問題点は残る。

「誰が社会構築すべきか?」ということだ。
理想論の究極的な到達点は、善良な独裁者の共産主義になる。
大衆に社会構築はできない、と、民主主義を否定したら、ここに到達するしかないのだ。
 
「どうせ大衆は馬鹿なんだから」、この前程では「何でもありの世界」か、「独裁者の完全なる統治か」という2択になってしまうのだ。
 
「全か無か」の究極の2択が、ヒューム理論=懐疑的経験則の根幹であり、解決出来ない問題点となるわけだ。to be or not to be …
 
ロックの民主主義的な要素までは、否定というか、「何でもあり」という経験論的な「世の中は良くなる」部分によって、すべては否定せず、かつ、「大衆は馬鹿だから、彼ら自身が社会構築してる=奴隷ではないという錯覚が必要」という考え方ぐらいだろう。
 
 
これは「現在の中央銀行制度=お金の仕組み」がおかしいなら、「一切お金は使うな!=自給自足だ」と、「中央銀行やBISを、おまえが乗っ取ればいい」という、完全な拒否か、完全な肯定かという、全か無かのジレンマである。
自給自足にもお金がかかるし、例えだが、クーデターなどの資金は、間違ってると騒ぐその口と手で、「誰よりも」集めなきゃならない理論になるのである。
 
さらに続けよう。
「マスコミは操作されてる=間違った情報である。」なら、「間違った情報から組み立てた推論=間違ってる」で情報を得るか、「一切の情報を扱うな」という2択になる。
これも、全と無なわけである。
ここは俺が「情報を使って先回り=確かめられる推論」しか扱わない理由でもある。
そこにヒューム理論の問題点を解決するヒントがある。
 
 
ちょいと長くなったが、がんばれよ。
この矛盾の2択というジレンマ=ヒューム哲学の矛盾は、「AよりBが意味がある」という条件を明確にした場合、解消される。
 
完全な情報拒絶をするより、「推察という情報から組み立てる行為」が「役に立つ」とした場合は、これは矛盾ではなくなるからだ。
つまり、「選べない2択」ではなくなる。

「お金の仕組みは間違ってる」と言って、金儲けをする場合も、「それがお金の仕組みの是正に繋がる」のならば、「お金は紙切れだ!と言いつつ、かき集める」という行為も、正当性を持つのである。
 
これをヒュームは「安全なる一貫性の放棄」としている。

お金が元凶なら、一切のお金を使うな!!
情報が操作されてると騒ぐくせに、その根拠となった情報も、また操作されてる物だろうが!!
働いても奴隷でしかないなら、働くな!!
 
これらは、もともと知性が「完全な一貫性」という規範として作り出してしまう理論であり、しかし放棄しなきゃならん義務を持っているということだよ。

警察が嫌いなら、殺されても警察なんて呼ぶな!警察が腐ってるなら、おまえが警官になってなおせ!警官になったら領収書作りから始まって、汚く染まらなきゃだめになる。じゃあ、警官の代わりをおまえ一人で全部やれ!
 
ね、知性が「意味なき完全な規範」へと導こうとするわけ。
 
 
おっと、ここではイルミナティの思想的アプローチの話だね。
最初に言ったとおり、批判的な経験則からであり、思想的にはニュームに近い。
 
そして、それは「大衆は馬鹿である」という理性(※3)から、イルミナティ(批判的経験論)が共産主義を生んだわけである。
ただ、共産主義は「経験でよくなる」という、イルミナティの「俺達が馬鹿に変わってやる」という規範に引っかかるため、あくまでもイルミナティ亜種=共産主義である。
「ロック(民主主義の祖) =経験で改善される」を肯定してるわけだからね。
 
共産主義や保護主義まで生まれて来たのを簡単に説明するのは後にする。
 
 
「大衆が馬鹿であるかどうか?」=「大衆が社会構築をできるか?」
これが理性の根源である。
 
ひらたく言えば、民主主義という多数決で、「正しい答えが選択できるか?」ってことだね。
答えは、もちろんNOである。
 
よって、イルミちゃんは考えた。

大衆は馬鹿=大衆に民主主義という錯覚を与えるべき=馬鹿な大衆を操る価値観は?
 
 
そこで、イルミナティが持ってきたのが、「理性」という言葉である。
社会構築の要素というポジションは説明したが、理性には2種類の意味がある。
 
馬鹿な大衆には、「理性=良心、道徳、経験的な改善によって蓄積される」、こんな幻想としての理性(※2)を与えるのである。
 
実際にイルミナティ(選民思想で自分たちは特別だと思ってる)は、これが幻想だと知っているわけである。
理性=ヒューマニズムの建前、(全く意味のないもの ※3)
むしろ、「大衆に与えるべき幻想、つまり馬鹿が馬鹿である根源の象徴としての理性」である。
ビルダーバーグ会議でわかるように、民主主義=幻想であるように、理性=幻想(※3)であると。
 
 
あなたは、もうアダム・ヴァイスハウプトの言葉も完全に理解できる。
 

「理性が人間の唯一の法典となるだろう。このことが私たちのもっとも大きな秘密のひとつである。ついに理性が、人間の宗教となるときに、その時に、問題が解決するだろう。」

 
イルミナティが大衆に与える理性が唯一の聖典となったとき問題は解決する。
つまり、大衆が「幻想である道徳や良心」※2を、イルミナティ(われわれ)に与えられて、唯一の聖典(絶対的な価値観)だと完全に「錯覚した時」、全ての問題は解決するということである。
 
つまり、理性のポジション(社会構築する上での要素 ※1)を幻想と錯覚だと認識できなくなったら、全ての問題はなくなる。
 
社会構成の要素、つまり民主主義とか世論とか、マスコミとかね。
そう言ってるわけである。
 
矛盾してありえない、自由、平等、博愛は、(∞)は、ヒューム理論における、「意味なき完全な規範」であり、一貫性を維持する事はできないわけだ。
 
有限的な社会は、無限である自由は存在できない。
さらに有限的社会から平等(∞)で割る事は出来ないわけ。
同じく引く事も。(博愛)

逆に、「自由」と対をなす「義務」は、大衆にとっては「義務=0、ゼロ」であり、イルミにとっては「義務を無限で割ること」とおなじである。
割る事は出来ないし、ゼロをいくら足しても、ゼロはゼロである。義務を果たす大衆はいない。
そしてヒューム的なジレンマ、全か無かにより、「差別(平等の反対)=ゼロ」では、こっちも割る事が出来ないわけです。
平等、自由、友愛なんて、この幻想のための合言葉、言葉遊びみたいなもんである。
 
さて副島あたりの話で、理性についておさらいしたいが、それは次回に回すか。
 
 
さて、「大衆は馬鹿という考え=選民思想」である。
その中で2種類の理性が生まれた。
それが、ヒューム哲学から生まれた懐疑的経験論である。
 
その思想を補うために、カントは「神を」理性(※1)として承認したわけである。
宗教=価値観の形成と一緒ね。

宗教もその宗教の上位組織ほど、その神様を「幻想という機能」であると理解してるわけ。
理性や道徳なんかを振り回してる奴ほど、それが幻想だと気づいてるし。
ユニセフと食料メジャーとか。

ここでも、ヒューム哲学=無神論を継承したカントが、方法論として神を取り入れただけのようにね。
 
 
さて、思想へのアプローチに戻ろう。
大衆が馬鹿→共産主義。ここは説明した。
 
民主主義という幻想を作り上げたこいつらは、ロック=経験論は肯定で、「理性批判=大衆は馬鹿だ」が、基本的な根幹である。
「大衆をどうコントロールするか=社会をどう構築するか?」って問題が残る。
 
では、ロック的思想「経験に任せとけばいいさ」という思想から簡単に説明する。
 
「経験による改善が全てである」=それ以外は、ヒューム的な「なんでもあり」の帰結へと持っていったのが、おおまかに言うと、自由主義である。
 
逆に、「経験的な改善の集大成こそが、今までの伝統や制度である」というのが、保守主義へと繋がったわけ。
個人の経験ではなく、国などの組織や体制を「経験の表現系」と判断したわけ。
 
逆に、これら国などの境目を、「なんでもありに邪魔」、もしくは「経験による改善にとっては障害」としたのが、グローバリストである。
 
 ↑ これらはロックの思想の「大衆は馬鹿だけど経験すればよくなる」と、批判的な経験論、「大衆は馬鹿だ!だから、何でもあり」が混ざったとこね。
つまり、ロックより。
 
最初に言ったとおり、イルミナティは、ロックよりは、ヒュームに近い。
ただ、「何でもあり!」ではない。
最初のほうで言った、「選民思想」は、ヒューム哲学による「全か無かのジレンマの解消」である。
懐疑的経験論が、大衆=馬鹿だ。→俺達は優秀!!からきてるから。
つまり、「俺達が選民として理性(幻想)を与えて統治したほうが、良い社会ができる」という部分があるからである。
それは選民思想の言い訳だね。それがイルミナティなの。
 
 
だから、本来のイルミナティはグローバリスト(何でもあり)ではない。
グローバリスト(統治するのに国は邪魔)であり、グローバリストにも種類があるわけよ。
グローバリスト(経験による改善の障害になる)ってね。
 
 
この場合、世界統一政府、帰一教、それは「統治するのに国とかが邪魔」であって、それは本来のグローバリズム(何でもあり)ではないわけよ。
 
さて、人名を挙げて思想的な影響についても言及しようかね。
哲学=大衆が馬鹿かどうか?ってことは、わかったかな?
 
 
リバータリアンと言う言葉があるが、これはフリードリヒ・ハイエクあたりが起源にになっている。彼はヒュームの批判性懐疑論を明確に継承している。
彼は、社会主義もファシズムも左翼であると分類した。
 
例えば、ロン・ポール。彼もリバータリアンとするという話だが、究極の自由主義者という表現はおかしい。
彼の理論は小さな政府、できるだけ「経験による改善に影響する物を排除しましょう、そして経験による改善にまかせましょう」というロックの思想「経験による改善」を突き詰めた物である。
よって、「大衆=馬鹿」という考えが、他の思想より弱い。
同じ、自由主義=「大衆は馬鹿だから何でもあり」で、同じ括りにするのもどうかと思うわけだ。
自由は定義できないものであって、それで区分け=数式は作れないわけだが。
 
 
ま、「経験による改善が全て」つまり、「他人に干渉する要素はできる限り取り除け」というのがオーストリア学派、リバターリアンである。
なら、「ドルが基軸通貨という『世界中に影響を与えてる要素』をまず、取り除け」というと、ロン・ポール含めて反論が一切出来なくなるのである。
 
 
逆に、自由主義ではなく、保護主義に活路を見出そうとした人もいる。
エドマンド・バークである。
バーク哲学の骨格
バーク保守主義は、記憶にもない、記録にもない、祖先から相続した古来からの“制度”を絶対的に擁護し、それを子孫に相続していく哲学である。この故に、自然的に発展し成長してきた不可視的な“法(コモン・ロー)”や道徳、あるいは階級や国家とともに、可視的な君主制度や貴族制度あるいは教会制度も、ある世代が自分たちの知力において改変することが決して許されない。
 
彼はフランス革命(イルミナティ)に対して、否定的である。
一見、わかりにくいが、簡単な話だろう。
思想は、ロックの経験論を支持で、ヒュームから生まれる「選民思想」を否定するために、保守的思想=制度や国家が、経験による改善行動の表現形としたわけ。
それを守る事で、ヒューム的な選民思想に対抗しようとした。
 
主著は1790年の『フランス革命の省察』(原題:Reflections on the Revolution in France)であり、この本は保守主義のバイブルとされる。
 
 
ま、日本での保守=売国=グローバル(なんでもありのほう)だからわかりにくいけど、本来の保守思想は、選民思想を否定しつつ、ヒューム哲学的な全と無のジレンマを抱えていたわけね。
伝統を守ったら経験により改善されないし、改善するなら、保守主義といえるものではない。
 
 
で、最後にイルミナティは、これに一番近い、進歩主義(コーポラティズム)である。

自分達の都合のいい王室だけを残して、他を叩き潰したイルミナティが、共産主義を認めるわけにはいかなかった。
しかし、理想論では、善良な独裁者の共産主義に帰結する、そこで出て来たのがこれだ。
 
それは改良型ヒューム哲学と言った方がわかりやすいかもしれない。
ま、中身は選民思想バリバリの進歩的社会主義というもんなんだけどね。
 
あくまでも、出発点は「大衆は馬鹿」から始まっている。
よって彼らは、馬鹿には民主主義という、お遊戯を見せといて、裏では社会主義という「理性という2面性」と同じ物を作ろうとした。
 
それは、ヒューム哲学から、「神」を社会構築の要素(理性1)として取り入れた失敗作の思想、、カントと同じことである。
馬鹿な大衆には、「美しい神の道徳と福音」を与え、裏では、「そんなもんねーよ」とコントロールする手法。
 
そそ、彼らがカトリックに「悪魔崇拝(太古の化石は悪魔が置いた)」と蔑まれたのに、悪魔を崇拝というか、儀式に取り入れた理由もここである。
 
それは2種類(※2と3)の理性と一緒。
神=道徳や美徳としての理性は、悪魔、欲望と同一であるということである。

神=悪魔で同じだけど、庶民は神を、選ばれた者は悪魔を、違う物をそれぞれ崇拝してるという図式は、簡単な話である。
大衆が馬鹿という真実の強調、神はいない、価値観の形成の主張。そして神よりも悪魔に近い、つまり欲が社会を構築してるんだよ!、気づけよ馬鹿ども!!!という話なわけ。
 
イルミナティは、カントの作った神がもう一度、表に出てくるのは許さなかったわけだが。キリスト教的な束縛がいやだからね。
 
 
カントの思想、これが進歩主義の失敗作だと理解できれば、後は簡単である。
馬鹿な大衆は、「共産主義にも絶えられない」から進歩主義を持ってきたわけだ。
 
コーポラティズムの中身は、民主主義ではなく、エリート社会主義=進歩主義、「大衆は馬鹿」の選民思想からきてるから、あたりまえである。
 
進歩主義は合理性を突き詰める。
馬鹿なんだから、馬鹿をコントロールする手法、そして、それがキリスト教のように「経験に改善されない」システムであってはならない。
よって、生まれたのが、神以外の価値観「誘導思想ツールの構築」=「馬鹿な大衆に錯覚を与え、コントロールするため」=地球温暖化詐欺である。
アイアンマウンテンレポートによる演出などは、これである。
 
 
そして、宗教でも洗練されたツールが出て来た。それがスピリチュアルなわけ。
イルミナティはカントの神を理性(要素)として持ってくることを否定した。
だからスピリチュアルな人たちに、「その神秘的なものって誰が作ったの?」と聞くと、答えられないわけ。
 
 
さて、簡単に書いて来た。
次回、副島あたりの話を書いて、最終的に「締め」だが。
 
そもそも、ヒューム哲学が、アホな二元論を生み、極端な「全か無か」という2択を生んでしまうように、哲学とは本来、何も生み出さないものである。
ただ、整理するためだけに存在する。
 
やってることは、A=BだからB=Aで騒いでるだけである。
はっきり言って意味のない話だ。その根幹は「大衆は馬鹿であるか?」=理性の種類であり、「それは経験により改善されるか?」=ロックの思想である。
 
それは、「哲学」ではなく「判断」に過ぎない。
明確な判断の材料であるが、判断そのものは哲学ではあってはならない。
あくまでも、方法論と、思想だな。重要なのは。
だから、哲学に方法論=宗教を入れると、整理が出来なくなるのだと思っている。
ま、それでもヒュームの哲学あたりは、自分の立場、思想を整理するのに非常に役に立つし、俺みたいな人間は読むべきかな?とか思うわけだが。

だが、本来の哲学とは、最も非生産的な行為なんだけどね。
 
  
 
じゃあ、俺も哲学を。
 
「良い話と、悪い話がある、どちらから聞きたい?」
 
『じゃあ、悪い話から。』
 
 
「良い話なんて、ねぇーよ、タコ!!!!!」
 
 
これが哲学なんだけどね。
無理やり2択にして、同じとこをグルグル回ってるだけ。
だから、不変の真理ともなりえるんだけど。

ま、記事が長くなったけど、「悪い話ではないでしょ? ッニコ♪」
 
 
 
 

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